生きていたくない。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 

前回の記事『びくびくしながら生きている。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/31/182428

 

 茫漠とした景色が広がっているようで、僅かな凹凸すら捉えられないほどに前後不覚な今日。社会人をしていた頃も生きていたくなかった。自分で決めた道を生きるなら、どんな困難もきっと越えられると思っていた。しかし、心身の状態は芳しくない。闇雲に頑張れていた時期は過ぎてしまい、あらゆる経験が重荷になる。ずっと腹の調子が悪いと言ってきたが、出された薬が「過敏性腸症候群」のものであり、少しは落ち着いてきたと思う。しかし現在は食欲不振である。
 一年間、休養を取っていた。外に出るのも困難な時期があった。加えてこのご時世だったので、あまり外出をしなかったのもある。それゆえに体重が激増した。私は子供の頃から体型がコンプレックスであった。それに加えて体重の増減も激しい体質だった。ある時一気に痩せたかと思えばまた増えている。かなり振り回されてきた。遠回しに体型のことを目上の人に言われたこともあり、私は笑いながら泣き出したくなっていた。
 太いとか細いとか、外見に関することを当人がどう思っているかなど、普通はわからない。「細くて羨ましい」というのも「胸が大きくて羨ましい」というのも褒め言葉ではない場合がある。あまりに主観的な意見だ。言われた方は、沈黙しながら傷付いていることもある。私は、外見的なことをあまり言わないようにしている。うっかり言ってしまうこともあるかもしれない。私だって、無意識に人を傷つけていることだってある。
 女子だけの食事会で、私よりも明らかに細い子たちが「痩せたい」とか「めっちゃ太った」などと話す時、とても居た堪れなかった。自意識過剰だと思うが、子供時代にいじられつづけた体型についての悪口がぶり返してきて、苦しかった。その子たちは私の胸の大きさを羨ましがる風なことを言って、私にも花を持たせているようだった。私は自分の胸が大きいことが嫌であった。気に入ったタイトなニットの服を着た時に、同じ職場の人にやはり胸の大きさを羨ましがられて、同性であっても嫌だった。胸の大きさが出ない下着をつけるようになった。胸に関しては中学の頃からだった。同性の女の子に胸を触られて大きさを羨ましがられた。私は不快だった、しかしそれをうまく言えなかった。同性なら胸に限らずベタベタと触ったり抱きついてもいいと思っている人がいる。私は人に触られるのが男女問わず嫌いだ。よほど仲良くならない限り、肌が触れるのは気持ちが悪い。
 去年、外に出ないことに加えて、過食が止まらなかった。止める方法がわからなかった。そして、医者に相談しても過食に関しては重要事項ではなさそうであった。一転して今は食欲不振だ。正直言って増え過ぎた体重が毎日減っていくことは嬉しい。けれども、このままだと危険であると思っている。普通に食べた方がいいだろう。けれどもそもそも腹の調子も悪い。八方塞がりだ。
 生きていく自信がない。原稿は進まない。書いていると、何かがこぼれ落ちていくような気がする。散々豪語して、後に引けなくなっている。求人を見る。やはり会社勤めのトラウマが消えない。人に会うのが辛い。驚くほどに社会性が薄れている。詩を書いていても、だんだんと言葉が足りなくなっている気がする。生きていたくない。
 自分で選んで、自分を見失わずに生きる。寿命まで、生きる。詩と文で生きていく。それらのことが私にのしかかってくる。どうして頑張れないの?私は私を責める。勤め人の頃と変わらない。「頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、どうすんだ、どうするんだ、これからどうすんだ。」頭の中で私は叫んでいる。生きづらい?それ以上だと思う。
 こうして見苦しいものを晒すこと。それ自体が今まで避け続けていたことだ。伝わらなくても、私は私を開示するは続けないといけないと思っている。今までなら絶対にやらなかったこと。コンプレックスのこと、全然うまくいかないこと、生きていたくないこと、詩にしても足りないことは、こうして書く他ないと思っている。こんなことでどうするのだろう。誰が私に興味があると言うのだろう。止まらない自嘲、自虐、命へもうやめてしまえと殴りつけるようにして、今日がまたくる。
 終わりが待ち遠しい。もう何も希望なんて見出せない。全部駄目だった。生きていたくないのと、しにたいというのは、似ているようで、違うのだ。自立しなければならない。今度こそ、自分に嘘をつかずに生きようと、そう思ったのに、やはり嘘をついていた。過剰なほどに前向きになっていた。置いてけぼりになった私がやはりいた。どうして一緒に歩けないのだろう。今までのことは、私が社会に過剰に適応するために、敢えて置き去りにしてきた。だから今度は置き去りにした私の声を聞いて、生き方を決めようとした。けれども気付けばまた、置いていってしまっている。
 自分らしくという言葉が、酷く軽々しく聞こえるのは、私に余裕がないからで、言葉自体に罪はないしその言葉をもって生きている人は何も悪くなかった。
 欲しいものはなんだろう。同情でもない、優しい言葉でもない、人の思いはコントロール出来るものじゃない。だからこそ、心を揺らすものが創りたかった。どうすることもできない。私の詩ってなんなんだろう。それは言わないようにしたかった。けれども、生きることを今日にでもやめたい切迫した状況で、もう格好つけるものか。
 肉体が鬱陶しい。この肉体に悩まされることが苦しい。生きているのなら、仕方がない。
 掲げた目標をとりさげることはしたくない。依然変わりなく、五つの目標はそのまま掲げている。なんでもいいから、私は私に動いて欲しい。絶望していても、希死念慮が強くても、情緒不安定でも落伍者でも、なんでもいいから動いて欲しい。沈んだ分だけ、跳ねて欲しい。
 喜びなんてどこにあるのだろう。希望なんてどこにあるのだろう。前みたいに生きることは、結局同じエンディングを迎えるだろう。人と働いていたとしても、組織は人であるとトップが宣ったとしても、組織は組織で組織的にしか作用しない。裏切られたのではない。裏切ったのは私の方だ。労働とは契約だ。契約を果たせないのなら、不履行だ。だから私が悪いというのが社会通念で組織的な考え方だ。資本主義を否定しない。会社勤めを否定しない。その中でやっていけなかったのが私だっただけだ。
 自信がゼロになれば、もうやめるだろう。それでもまだ、自信はゼロにならない。ただの不安が目の前に広がる。寿命も見えない。明日死ぬかもしれない。誰かは生きたいかもしれないけれど、私はその誰かではない。私は罰当たりかもしれない。私を甘えていると見る人もいるかもしれない。これが甘えと片付けられればそれまでだ。努力している人間がこういう人間を嫌悪する気持ちもわかる。私だってそうだった。努力している人は絶対的だ。漫画やアニメの主人公も結局努力して敵に勝つ。その努力信仰が根強い。私は甘えている。気分が悪いと思われる。
 どう思われるかを脳のどこかで気にしながら、本音をぶちまかしている。情緒は可笑しな動きをする。正常で尋常な動きをしながら、何かが破裂して機能停止することを願っている。畢竟、私は甘えている、と判断されるだろうから。 

 


■活動中のSNS

Twitter→@sosogi_yukimizu
https://mobile.twitter.com/sosogi_yukimizu

□standfm→ https://stand.fm/channels/60c6be9db82bc5e1f35fdd67
(そそぎ詩作チャンネル)

□ note→ https://note.com/yukimizusosogi

YouTubehttps://youtube.com/channel/UCNog-RBx4meZ1i7tPsvpFZQ

instagram→@sosogi_yukimizu
https://instagram.com/sosogi_yukimizu?r=nametag