雪水雪技の今後の活動について(7月更新)

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 

 7月になりました。「詩と文で生きていく」を実践のため、6月の結果を踏まえて新しく活動についての方針をお伝えします。

 

 具体的な活動目標、内容は下記の通りです。

 

 1.詩集の発刊
 6月21日発売→BOOTHにて販売中
 詩集『空想少女』 | 詩集ゆきみず屋 https://yukimizusosogi.booth.pm/items/3940055 

 

 今後は秋に向けて詩集作りを粛々と行いたいと思います。現時点では10月ごろ発刊の予定です。


 2.電子書籍(kindle)販売
 6月7日出版「さようなら 社会人。」販売中
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0B3DGMR3V/ref=cm_sw_r_awdo_QGY3VTM1E751P2NMCS3C

 

 今後は、要望のありました詩集について、エッセイと詩を織り交ぜた散文的詩集を電子書籍で出版したいと考えております。8月から9月にかけて、こちらも順次出版していきたいと思います。

 

 3.音声配信の充実
 standfm.にて毎日更新中。YouTubeにて長い詩の朗読動画、ショート動画公開中。
また、Twitterにも詩の朗読を投稿しています。

 

 6月10日standfm.にてメンバーシップを開始しました。表にあえて書いていない創作について思うことを語っています。今月はコンテンツの充実化を目指していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 

 4.note、はてなブログ
 noteへは毎日のTwitterへの詩の投稿ログをまとめて、散文的日記を更新中です。
 はてなブログへは本や漫画の感想などを今後も書いていきます。それぞれの味を出していくことが現在の課題です。

 

 5.詩、批評(評論)文、音声等の仕事依頼受付

 ・詩  基本料金 2000円 (一作あたり)(予算に応じた金額応相談)
 ・文 文字数による 1字1円〜
          +必要経費(書籍購入代等)
 ・音声 400字 5000円(経費込み)〜

 ・その他 
  校正、レビュー、宣伝等 → 料金応相談
  ご依頼のご相談は、依頼先同様の連絡先にてお気軽にお問い合わせください。

 

◆詩、文章はWordかPDFによる納品になります。
◆音声はM4Aファイル、BGM付きの場合MOVファイル形式になります。

 

 ●仕事依頼先→ viyonzoon@gmail.comまで
  (※Twitter相互フォロワー様に限り、これまで通りTwitterDMにてご依頼ください。)

 

 ●その他Twitter及びネット内外の企画に関しましては金銭の発生の有無を問わず、お気軽にTwitterDMにこれまで通りお送りください。

 

◯仕事の流れ
①ご依頼主さまからご連絡
②依頼内容についてメールにて打ち合わせ
③契約内容、お見積もり金額の確認
④契約書の取り交わし
⑤作成物について、納品前に確認(修正、ご要望承ります。)
⑥データにて納品、お支払い先のご案内のメールをお送りいたします。(請求書、納品書が必要な場合はお申し付けください。)
⑦ご入金確認後、受領確認のご連絡のメールをお送りします。(別途受領書が必要な場合はお申し付けください。)

※契約書は当方でもご用意できますのでお気軽にお申し付けください。

 

雪水のSNShttps://lit.link/yukimizusosogi


2022年7月11日 雪水雪技

【詩集感想】『亜寒帯』石川善助

「あるきみ屋」さんから詩集『亜寒帯』が出版されると、ずっとTwitterにて石川善助の情報を追っていた私はすぐに注文した。

 

◯「あるきみ屋」Scrapbook
https://scrapbook.base.shop

 

あるきみ屋さんが、ルビ付きで読みやすく再出版を行って下さらなければ、私は石川善助という詩人を知らないまま人生を終えていただろう。


実際に詩集を読んで、とても感激した。石川善助に出会えたことは奇跡であり歓喜であった。

 

本書は高村光太郎福士幸次郎の序文に始まり、「北太平洋詩篇」、「市街前書」、「沿岸地方」、「郷土周辺」、「北荒外景」、「抒情詩篇」という構成の他に、宮沢賢治、郡山弘史による石川善助の人物像についての文章や、編者による石川善助と草野心平とのエピソードも掲載され、とても充実した内容となっている。

 

 

私の詩への感想は、観念的で抽象的なものになりがちだが、ここに『亜寒帯』を読んで感じたことを記しておこうと思う。

 

人は絶景を見たがる。美しい景観を好む。世界遺産を見たがる。特別を見たがる。私も例外では無い。しかし、全体、それを見て何を感じるのか。


遺跡にしろ自然にしろ、体感したにしろ、それはその体験なり記録なりに価値が付く。しかし実際に見るとは、視ることとは、なんであろうか。

 

詩人は、眼前を視ている。絵画の技法で言う写実で表すか、印象で表すか、象徴で表すか、それはその表現者の眼によるところである。そうして技法の他、表現者の精神の作りにより作品は異なってくる。

石川は、眼前を視て、空気中の原子ひとつひとつを視ていたのだと感じる。実際に原子が見えるということではない、彼の心象風景の中では生きとし生けるもの全ての躍動が存在しているのだ。

 

北太平洋詩篇」、真っ黒なすべすべとした巨大な鯨の肌が私の眼前に現れた。全体を私は捉えられない。しかしそれが鯨の肌であることはわかる。そして極寒の海が鯨の肌の向こうに広がっている。内陸の雪国育ちの私は海が側にあったわけではないが、猛吹雪の中を歩いていた記憶がある。そして読み進めるうち突然、あの日の猛吹雪が巻き起こる。肺の中まで雪が入り込み、息が出来ない。冷たく苦しいが、その間には火を焚く人々の姿が視える。吹雪の合間に見えるもの、それは太古の人間の暮らしである。そう、私は石川の心象世界に居る。彼は原始の頃(恐らくは縄文時代)人の営みに夢を見ている。火を囲む人たちを明かりのない世界の中で石川は眺めている。触れることの出来ない世界に、還りたいと願うかのように。私には、どこか寂しそうな、石川の後ろ姿が視える。現実という真冬に立ちながら、暖かさに満ちた太古を思い返して、ただ、見つめている。

 

「市街前書」に来ると、吹雪は止み、鯨の肌は消えた。かわりに、何処かの屋敷の中にいた。自然の怒涛はここにはない。寂しく静かな貧しさが、ゆらゆらと灯っている。悲観は無く、やはりただただ、石川の眼前を視つめることで成り立つ心象風景があった。ただ、石川は疲れているようだった。しかし悲壮感は不思議と感じない。悲観的な断末魔のような詩はそこにはない。静かに、静かに、ただ、自分自身につぶやいているように、あと少しで瞼が落ちてくるような、微睡と疲労の合間の優しい語りがあった。

 

「沿岸地方」、景色が広がった。ここは自然の中のようで、空気が澄んでいた。石川の心にある自然が広々としている。彼の叙情が空の上で震えている。彼自身が作り出す色彩が揺れている。ここは海の全体像が見えてくる。そうだ、彼の心象風景はどこまでも、どこまでも、続いているのだ。現実が何であれ、彼はいつも自由の身でいること、それは内面世界の多面性と光、自然への熱情、景色は濃く描かれる。陰影がはっきりとして、しかし幻想の色と神秘的原石はありのままに存在している。

 

「郷土周辺」、ここには彼の祈りの声が満ちている。必死に、しかし、誰にも気付かれることなく、彼は祈り続けている。何のために?それは推し量ることはできない。人の不安は深淵である。だから、彼は詩に託した。彼の表面を、私は知ることは出来ない。彼を知ることが出来たところで彼に会うことはもう出来ないのだから。しかし、彼は祈っている。切実に、切実に、手を合わせ、手を握って、それは彼の心にある罪悪なのか、それとも彼の心にある深淵の不安なのか、それを軽々しく私は考察など出来ない。ただ、ここには彼の祈りがある。そして彼は祈りを詩に出来た。その事実がただ、ただ、広がっているのである。

 

「北荒外景」、彼の信仰の形が表れている。彼の憧れの風景がある。原始への熱情と彼独自の神話がある。世界中の神話が彼にとっては詩の世界を広げる要素になったのだと感じた。祈りとは異なる、もっと広大な彼の世界。つまり、彼の信仰や思想が溢れている。羨望であるかもしれない、願いであるかもしれない、しかし、彼は作り上げた。彼は彼の世界を創造した。彼はやり遂げたのだ。そこに彼は横たわる。どこまでも広がる空の下、朗らかに、笑いながら、体を休めている。永遠の楽園とも言える、彼の心象世界が彼の命と共に広がり続けている。

 

「抒情詩篇」、あどけない、子供がいる。それは彼の見た子供なのか、彼の中の子供なのか、いずれにせよ、彼の心象世界で生きる子供が遊んでいる。彼は子供に何を表す?例えば現実のままならさ、大人になることで生まれる俗世の汚れへの自浄作用?しかし何を仮定したところで、それは後付けでしかないだろう。子供はずっと彼の心象世界で遊んでいる。ずっとはずっとだ。彼の命と呼応して、ずっと遊んでいる。それを彼は見つめている。優しい目で見つめている。

 


感じたことを、衝動のままに書いた。私は文芸、特に詩においては解釈を持ちたくない性分である。詩は、詩であり、それで完結するのだという持論で生きている。ここにあるこの単語がどういうことを表すとか、ここはこの哲学の影響があるとか、そういうことに興味はない。
詩は味わえばいいのである。詩を読むときに文字に構えると詩は読めない。構えることはない、ただ読めばいい。
子供の頃絵本を開いた時、何か得ようとしただろうか、理解しようと努めたであろうか。詩は没入して、思考以外で味わうから詩になり得るのだと私は思っている。感想を書く時も、味わった後、思考が余計なことを言う前に書いた。だから、はっきり言って感想としては伝わっている自信はない。

だから、実際に読んで欲しい。詩を読んで、その感覚を共有するというのは困難であると私は思う。詩は読み手の個人的な体験に終始すると思っている。

 

石川の詩には、疲労は見えても悲壮は無い。どこまでも、彼が見てきた自然の雄大さが彼の心にある。彼は狭まらない。彼は嘆かない。ただ、眼前を視て、生きとし生けるものの命一つ一つと彼の心象世界で共に生きている。


■活動中の雪水SNS

Twitter→@sosogi_yukimizu
https://mobile.twitter.com/sosogi_yukimizu

□standfm→ https://stand.fm/channels/60c6be9db82bc5e1f35fdd67
(そそぎ詩作チャンネル)

□ note→ https://note.com/yukimizusosogi

YouTubehttps://youtube.com/channel/UCNog-RBx4meZ1i7tPsvpFZQ

instagram→@sosogi_yukimizu
https://instagram.com/sosogi_yukimizu?r=nametag

【漫画感想】『迷走戦士永田カビのグルメでGO!』永田カビ作

迷走戦士・永田カビ グルメでGO! 分冊版 : 1 (webアクションコミックス) https://www.amazon.co.jp/dp/B08XXTKQHJ/ref=cm_sw_r_awdo_WYXCAENBEXHXGFZREX5C

 

私は永田カビ先生の作品が大好きだ。数年前、何故かわからないけれど、『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』を手に取ったのが始まりだった。当時は「社会でちゃんとやれている自分」に違和感を持たずに生きていたと思う。だから「さびしすぎて」も「レズ風俗」もピンときたわけでもない。「レズ風俗に行った」という体験が特段読みたいというわけでもなかった。
ただ、何故か気づいたら本書を持って会計をしていた。家に帰ってすぐに読み、この本が、自分にとってものすごく必要な作品であることがわかった。
「わかる…」体験が同じわけでも無い、人生が似ているわけでも無い。でも、ものすごく、心の奥底まで作品の手が伸びてくるような体感があった。意識から外していた自分の苦しさが、ここに表現されている気がした。生き方も考えも、違う、行動も違う、何が同じかなんてわからないけれど、永田カビ先生を読んだ時の感覚は太宰治萩原朔太郎を読んだ時の「ああ、私がここにいる」という感覚と同じだった。
それから永田カビ先生の作品は全て読んでいる。上記の『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』にはじまり、『一人交換日記』、『一人交換日記2』、『現実逃避してたらボロボロになった話』、『迷走戦士永田カビ』、『迷走戦士永田カビのグルメでGO!』(こちらは電子書籍のみ)、今月発売された『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』の文庫版も予約して購入した。
どの作品も何度も何度も読み返している。部屋に本の収納スペースが無くなり、漫画は全て電子で読んでいる私だが、永田カビ先生の作品は全て書籍で持っている。
kindleで読める『迷走戦士永田カビのグルメでGO!』に、今朝心から共感したことがあった。私はストレスから過食(仕事していた頃は飲酒も)に走る傾向があった。かと思えばお粥ばかり食べて痩せる時期もある。だが、過去の仕事では食事に行く機会が多かったこともあり、固形物を長いこと入れずに宴席で食事を取ると帰宅後戻してしまうことがあった。だから固形物を食べ始めると一転して過食、減った体重はリバウンドしてさらに増える。そんなこんなで体重が安定しない。
今朝、口の中をジャンクなものでいっぱいにしたくなった。(あ、ストレスだな…)と思った。頭の中は食べ物でいっぱいだった。唯一の救いは飲酒を我慢できる事だった。
先日まで過敏性腸症候群になり、薬で落ち着き、お粥と夜は固形物という暮らしをしていた。体重がこのまま落ちればいいのに、もう食事も取らなくて良くなればいいのにと思って食べる事自体を避けていたが、外でこれから働こうという気になり、ただでさえ落ちている体力をこれ以上落とされまいと食べるようになった。
だが、いざ求職活動が始まると度数の強い酒が欲しくなり、甘くてカロリーの高い菓子パンや、ガッツリ系の調理パンが食べたくて仕方なくなった。(私はご飯派なので、普段そこまでパンに反応しない)
そして今朝、コンビニでジャンクなものを買い漁ろうと雨の中出て行った。口が欲していたのはカレーパンだった。その時、永田カビ先生の『迷走戦士永田カビのグルメでGO!』の冒頭を思い出した。作中「揚げた芋でしかどうにもできない気持ちというものが有る」と言うモノローグが入るのだが、まさにそういう状態だった。
揚げたザクザクのものでしかどうしようもならない。スナック菓子とかそういうのじゃない。ネタバレにならないように詳しくは書けないが、口の中で油を感じるということでカタルシスが生まれるということが描かれてあり、詰まるところ私もどうしようもなく埋めようの無い気持ちに苛まれ、虚しくて、憂鬱で、もう消えたくて仕方がないのを油でどうこうしてもらいたいという状態だった。
私の場合、コロッケでは無く、カレーパンがそうであった。昔はカレーパンは好きではなかった。普段も特にカレーパンを食べたくなることはない。でも、今日はカレーパンだった。カロリーの高いジャンクなものを探し求めて店内を歩いても、お菓子では無い、パスタでも無い、肉でも無い、過食すると思っていたわりに、脳はもうカレーパン一択でほぼ停止していた。今日は甘い高カロリーの菓子パンでは私は救えなかった。カレーパン、揚げたパンにスパイシーなカレーがぎゅっと詰まった、口に入れたら油とカレーのスパイスで脳が飛びそうになるような、そんな不健全な思いでカレーパンをカゴに入れた。
他にも一応(?)甘いものやら、大好きなブリトーなどを買ったが、帰宅して、すぐ正座してカレーパンを食べた。もうこれだけでよかったんだ。カロリーは400kcal以上ある、朝からずっしりくる、美味しい、油が唇を覆う感覚、でももうそれ以上何かを食べたいとは不思議と思わず、食べ終わってまもなく、胃痛がやってきた。
片手でカレーパンを持ちスマホで『迷走戦士永田カビのグルメでGO!』を読んでいた。コンビニのコロッケを食べている永田先生と同じ気持ちになれた気がした。
埋まらない気持ち。どうして過度に食べてしまうのか。自分でなんとなくわかっている。家族がいても友達がいても、根源的な孤独が埋まらない事。いつも空いている孤独の穴が広がってゆくと過食や飲酒に走りたくなる。外で頑張るほど穴が広がる。社会的な顔の私が詩を書く私を踏みつけて前は前へと進んでゆく。「もういいじゃん、もう頑張らないでよ」、「じゃあどうやって生きていくの?」、「だけど頑張りすぎて同じこと繰り返すのは本末転倒…」、「金がいる。お前の詩はいつ金になる?」、「芸術というのは、一人にでも伝わればいいんだよ」、「税金、年金、保険料、生きているだけで金がかかる。詩集作るのにも金がいる。金、金、金を作らねばならない。」自答に自答を繰り返して、心はすっかり疲れてしまった。
本当にやりたいことがあっても、それで生きていくことを自分が許してくれない。金とか才能とかだって、自分が無理矢理見つけてくっつけている理由でしか無い。
それでも、役に立つものが書けたのなら、役に立つことを発信してそれが楽しいことだとしたら、その人はついているよなぁなんて思ってしまう。

文字列、文字列、でも、そこに私の本懐が、本音が、表現がある。踏みつける自分の足を掴んで泣いている。外で働くから、もう「切るな」よ、冷たく私は私に言う。

口の中で油が弾けている。私に取ってはカレーパンだったのか。カレーパンにしかどうにもできなかったのか。食べ終わり、取り敢えず、ひとつ納得した。

永田先生と私の共通点は数えていない。太宰や朔太郎を読んだ時と同じ。似ているとか共感とかじゃなくて、ただただ、「ああ、私がここにいる」そういう言葉にすれば結局は共感ってことじゃないの?と思われそうだが、もっと奥の奥の奥、そこに作品の手が伸びてくる感覚。詩を書いているくせにこういうことを明文化出来ない。しかし書いたところで完全なる抽象的表現の羅列にしかならない。詩に何らかの破片が混じることがあるかもしれない。

ああ、胃がまた、何かを求めている。
空洞が広がってゆく。
精神的な思考的な苦しみを本能的な方法で解消しようとする。人間は自分が動物とは違うと思って生きてるかもしれないけれど、兎、像、猿、魚、鯨、虫、何も変わらないでその名詞たちの横に人が並ぶだけだと思う。

難しいことを考えるな。
思考はいつも五月蝿い。
脳は永遠に暴走するしか無い。
理性なんて、本当か?
冷静なんて、本当か?

けれども本当に食べたかったカレーパンが、今日は売ってなくて、妥協して買った。味は美味しい。けれども食べたかったのは違うカレーパンだった。

私が好きなものって、店から無くなりやすい。

■活動中のSNS

Twitter→@sosogi_yukimizu
https://mobile.twitter.com/sosogi_yukimizu

□standfm→ https://stand.fm/channels/60c6be9db82bc5e1f35fdd67
(そそぎ詩作チャンネル)

□ note→ https://note.com/yukimizusosogi

YouTubehttps://youtube.com/channel/UCNog-RBx4meZ1i7tPsvpFZQ

instagram→@sosogi_yukimizu
https://instagram.com/sosogi_yukimizu?r=nametag

この声を発信するのが怖かった

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

電子書籍発売中。(宣伝)

2022年6月7日出版
『さようなら 社会人。』
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B3DGMR3V/ref=cm_sw_r_awdo_QGY3VTM1E751P2NMCS3C

 

朗読の配信を続けている。昔はネットに声を上げることすら怖かった。声だけで色々イメージされるのが怖かった。

学生の頃、「アニメ声だよね」と言われたこともある。別にそれはいいのだが、なんだか声だけで表現すると、違う生き物になるような気がしていた。よくわからない違和感。声を好かれることに拒否反応があった。なぜだろう。

そもそも、声だけで演技するのは難しい。演劇は出来るが声劇は下手だと自分で思う。声優の凄さに圧倒される。喋りならばプロのアナウンサーとは雲泥の差だ。

演劇も十年以上演っていない。滑舌も発声も演技力も落ちているだろう。

朗読しようと思ったのはどうしてだったか、よくわからないけれど、二十代の頃の恐怖心も薄れて、アニメ声かどうかは知らないけれど聞き取りやすいとはかつての仕事で言われてきた。

何故かもう、恐怖心は消えていた。

声だけが違う生き物になる感覚もなく、声より創作詩を気に入ってもらえるのならと言う気持ちで読んでいる。

だから、なんなんだというような、明文化出来ないものが私の周りを飛んでいる。押し殺してきた自分を解放したいと願った。幸せになりたいと願った。でも、だから?というような気持ちが同時に湧いてくる。

何もかも諦めて生きた方が楽かもしれない。幸福を選ぶのは勇気が必要な気がしている。

声で、詩をなぞる。私の詩はなんなんだろう。詩集も作って、明日から販売する。自分としては気に入っている。一人でも読んでくれる人がいるのならありがたい。

これで生きられたのなら最高だ。

 

私は再び分離していくような気がした。やっと掴んだ自分は想像と創造の世界を飛びたがる。

しかし、現実は目の前にある。その目の前の現実を歩むための私がいる。掴んだ私が、すり抜けていく。詩を書く。詩がいい。詩にしかならない。声は詩をなぞる。声が詩を伝える。耳から入り込みたい。そう、誰かの心に入り込みたい。それは何故だ。拒絶していた時代。空中分解していく願い。何に成るかとか、何を学ぶかとか、そういうことから離れて、でも生きていかなきゃいけなくて、それらは分離して、しかし素材はそれぞれ存在している。

 

よくわからない、そう思いながら仕方なく?意欲的に?前向きに?諦めて?

生きているという事実が主語を通して存在を確認できている。

 

■活動中のSNS

Twitter→@sosogi_yukimizu
https://mobile.twitter.com/sosogi_yukimizu

□standfm→ https://stand.fm/channels/60c6be9db82bc5e1f35fdd67
(そそぎ詩作チャンネル)

□ note→ https://note.com/yukimizusosogi

YouTubehttps://youtube.com/channel/UCNog-RBx4meZ1i7tPsvpFZQ

instagram→@sosogi_yukimizu
https://instagram.com/sosogi_yukimizu?r=nametag

自分自身の「書いていて苦しい」を認めました。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 

電子書籍用の原稿を書いてて、自分のことを書いていて、なんだか苦しくなってきました。

 

自分と向き合うということになると思うのだけど、言葉を詰めていって、段々と失速していくのがわかる。そして胃が痛い。
前作は、勢いで書けたところもある。二作目は書き出してからずっと向き合えていない。書いてみても、具合が悪くなる。これは、もう少し寝かさなければならないのかもしれない。

 

そんなわけで、今月五冊の予定はギブアップします。(潔い)

 

現在進行形の苦しみを生々しく書くって、私には無理だったようです。胃に穴開けて実録書くぐらいならもっと詩を書いていたいと思いました。

日々考えることとか心情の吐露は、はてなブログで引き続きやっていけばいいと思い、詩に集中している方が私の場合は具合がいいようです。

一旦一通りやって、合う方法だけ続けるスタイルでいようと思います。でも、今回電子書籍の出し方とか色々学べたのでよかったです。ハードルは全然高くないです。私にも出せました。
kindleの登録方法とか表紙の作り方とか、調べると丁寧に教えてくれるサイトがたくさんありました。難しくなかったです。

今は未定ですが、電子書籍で詩集出すのもいいかな〜とも思っています。紙の本は紙の本で出しますが。
取り敢えず、一個学べた。それで良きです。

詩集は予定通り発売しますのでお楽しみに!!


■活動中のSNS

Twitter→@sosogi_yukimizu
https://mobile.twitter.com/sosogi_yukimizu

□standfm→ https://stand.fm/channels/60c6be9db82bc5e1f35fdd67
(そそぎ詩作チャンネル)

□ note→ https://note.com/yukimizusosogi

YouTubehttps://youtube.com/channel/UCNog-RBx4meZ1i7tPsvpFZQ

instagram→@sosogi_yukimizu
https://instagram.com/sosogi_yukimizu?r=nametag

実績が無いから書けること

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

今月は詩集とKindleの出版を始めることにして、まずは一冊書いてみた。

2022年6月7日出版
『さようなら 社会人。』
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B3DGMR3V/ref=cm_sw_r_awdo_QGY3VTM1E751P2NMCS3C

あらすじ
「こうして私は仕事を辞めた」
仕事が大好きでそのためにあらゆる努力をしてきた著者が、どうして仕事を辞めることになったのか。
自分の理想像のために自分を無視し続けた。無理の上に成り立たせた成功はあっけなく無くなってしまった。
過剰に環境に合わせ、過剰に人から嫌われることを恐れ、そのために作り上げた自分が自分を潰していくその過程を赤裸々に書いた。毎日がなんだか辛い、苦しい人に、一度立ち止まってもらうための一冊。


ということで、今は二冊目を執筆中だ。やはり、一冊目が難所らしい。その一冊目を出したのだから自分で自分に自信を持っていいはずだ。しかし、どうにも雑念が消えない。雑念というか不安だ。私は私を認めてあげることから始めなければならない。どうしても、古い観念が新しい生き方にストップをかける。

何者でも無いから書けることがある。
成功体験、成功術、そういう本はたくさんある。
でも、何かを成さなきゃ、本を書いてはいけないというわけではない。誰だって書いていい。誰だってかけがえのない、唯一無二の自分を表現したっていい。誰の許可もいらない。情熱に従って表したいことを具現化させていけばいい。

そう、書けば単純なことなのだ。
だのに、私は飛び込んだ割には未だに思い切りが足りない。最早乗り掛かった舟だというのに。

私は恐ろしく短気だ。長い目で見るということが出来ない。人生の中のたった一ヶ月すら耐えられないで毎日不安と緊張の中にいる。…というようなことを二冊目に書いている。「好きなことで生きていく」というのは特別な人じゃなくても選べる。けれど、実際自分への信頼が薄い私がやったらこうなった…ということをまたしても赤裸々に書いている。

誰に向けているのか、それはわからない。最初の本だって、書きたいことを書いた。結局私は詩にしても本にしてもブログにしても、書きたいことしか書けないのだ。
戦略なんて無い。勝算も無い。自信も無い。
それなのに、それで生きていきたいって初めて本音で私は私に伝えてきたのだ。だから、それを尊重してあげないと、私は前作で書いた二十代を繰り返すことになる。

同じことは繰り返したく無い。
最近、「人生時計」というアプリを入れてみた。
これは平均寿命を元に私の残りの人生の時間がわかるというものだ。
ちなみに私の残りは63%。これはスマホのバッテリー残量だとしたら私の場合心許なくなる。実際はもっと短いかもしれない。寿命で言えば、母方に似れば長寿だが、父方に似れば短命だ。
足して割ったら平均寿命よりは短いかもしれないが、極端に短くはない。しかしそれはあくまで健康寿命上の話で、実際何で死ぬかなんてわからない。

どうしても、やりたくないことに時間を使いたくなく無い。やりたいこと、好きなこと、好きな人、そういうものに囲まれたい。それを罰するのは私だった。周りは誰も私を責めない。私が私を責めている。勤めていた頃と何も変わっていない。

だから最近は潜在意識の書き換え、散々やって諦めた引き寄せについてもう一度向き合っている。

自分に自信が無いと、何も受け取ることが出来ない。嬉しいことに距離をとり、辛いことにだけフォーカスする。そんな人生もう嫌だ。私は幸せになろうと決めた。今まで全部諦めていた。

何かを得るためには何かを諦めなければならないと、ずっと思っていた。でも、それはどうしてだろう。ありのままの自分が認められなくて、人のイメージと求める像に合わせていた。そしたら、上手くいった。外部の世界は驚くほど、上手くいっていた。けれども結果的に私は働けなくなった。

自分を大事になんて言葉嫌いだった。自分を褒めるといいと知って実践したら気持ち悪かった。

でも、そんなの悲しいと思った。自分は自分でいい。私は私のままでいい。そう心から認めて初めて、私の人生が始まるような気がした。遅いも早いも無い。いつからだっていい。

自分を癒すとか、言葉だけはずっと知っていた。でも私は、自分を律して、自分に厳しくして、そうして他者を優先するべきだと思っていた。
だから、自分を無視した。そして消えたくなった。何も成せない、出来ない、そんな自分を許せなかった。

だから、「それ」をやめようとようやく決めた。
私は幸せになっていい。許可なんていらない。

思うようにやって、うまくいかなくても、私は私をもう責めない。そのために、古い観念を書き換えようと色々試している今日この頃。

そんな日々をまた書いて、詩で、文で、朗読で、私は私の表現を続けようと思う。

kindle出版一覧(8月1日更新)

これまで出版した電子書籍一覧です。
kindle unlimitedの方は無料で読めます。
ぜひ、ご一読ください。

2022年6月7日出版
『さようなら 社会人。』
https://www.amazon.co.jp/dp/B0B3DGMR3V/ref=cm_sw_r_awdo_QGY3VTM1E751P2NMCS3C

◯あらすじ◯
「こうして私は仕事を辞めた」
仕事が大好きでそのためにあらゆる努力をしてきた著者が、どうして仕事を辞めることになったのか。
自分の理想像のために自分を無視し続けた。無理の上に成り立たせた成功はあっけなく無くなってしまった。
過剰に環境に合わせ、過剰に人から嫌われることを恐れ、そのために作り上げた自分が自分を潰していくその過程を赤裸々に書いた。毎日がなんだか辛い、苦しい人に、一度立ち止まってもらうための一冊。

 

2022年7月30日出版

『詩を書くように生きられたのなら』

https://www.amazon.co.jp/dp/B0B83VB1LD/ref=cm_sw_r_tw_awdo_7T0KZMH2VD8W97XG4M9A

◯内容◯

雪水雪技初の散文詩的エッセイ。

書き下ろしの詩11作掲載。
巻末には詩論を掲載。

 

珠玉の言葉による感傷と情緒の抒情的世界への案内。

 

そうです。ひたすらに悲しいのです。
 此処はかつて舗装された道の上だったような気がします。紛れもなく、私が選んだこと。選択の連続で人生の形が変わってゆく。絶対的に正しいものなんて無いこともみんなわかっている。もう通知表も人事考課も無いところで、来ない電車の時刻表を砂浜に書いている。

詩を書くことは心象世界の旅に出ることだ。
積み上げてきたものがあっけなく無くなり、自分と呼ぶものの対象が、私と呼ぶ存在が、曖昧になる日々を淡々と書いた、「決壊のあと、涙のあと」


「「友達」、「親友」、「みんな」、それらの言葉にどれだけ私は振り回されて来ただろうか。」

不遇の子供時代からやってきた子供の私と大人の私が詩を通して対話をする。そこで見えてくるものは何か。答えなど期待してはならない。時間旅行と現在の私により言語化された子供時代を綴った「詩を書くように生きられたのなら」

 

是非ご一読ください!