【詩集感想】『亜寒帯』石川善助

「あるきみ屋」さんから詩集『亜寒帯』が出版されると、ずっとTwitterにて石川善助の情報を追っていた私はすぐに注文した。

 

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あるきみ屋さんが、ルビ付きで読みやすく再出版を行って下さらなければ、私は石川善助という詩人を知らないまま人生を終えていただろう。


実際に詩集を読んで、とても感激した。石川善助に出会えたことは奇跡であり歓喜であった。

 

本書は高村光太郎福士幸次郎の序文に始まり、「北太平洋詩篇」、「市街前書」、「沿岸地方」、「郷土周辺」、「北荒外景」、「抒情詩篇」という構成の他に、宮沢賢治、郡山弘史による石川善助の人物像についての文章や、編者による石川善助と草野心平とのエピソードも掲載され、とても充実した内容となっている。

 

 

私の詩への感想は、観念的で抽象的なものになりがちだが、ここに『亜寒帯』を読んで感じたことを記しておこうと思う。

 

人は絶景を見たがる。美しい景観を好む。世界遺産を見たがる。特別を見たがる。私も例外では無い。しかし、全体、それを見て何を感じるのか。


遺跡にしろ自然にしろ、体感したにしろ、それはその体験なり記録なりに価値が付く。しかし実際に見るとは、視ることとは、なんであろうか。

 

詩人は、眼前を視ている。絵画の技法で言う写実で表すか、印象で表すか、象徴で表すか、それはその表現者の眼によるところである。そうして技法の他、表現者の精神の作りにより作品は異なってくる。

石川は、眼前を視て、空気中の原子ひとつひとつを視ていたのだと感じる。実際に原子が見えるということではない、彼の心象風景の中では生きとし生けるもの全ての躍動が存在しているのだ。

 

北太平洋詩篇」、真っ黒なすべすべとした巨大な鯨の肌が私の眼前に現れた。全体を私は捉えられない。しかしそれが鯨の肌であることはわかる。そして極寒の海が鯨の肌の向こうに広がっている。内陸の雪国育ちの私は海が側にあったわけではないが、猛吹雪の中を歩いていた記憶がある。そして読み進めるうち突然、あの日の猛吹雪が巻き起こる。肺の中まで雪が入り込み、息が出来ない。冷たく苦しいが、その間には火を焚く人々の姿が視える。吹雪の合間に見えるもの、それは太古の人間の暮らしである。そう、私は石川の心象世界に居る。彼は原始の頃(恐らくは縄文時代)人の営みに夢を見ている。火を囲む人たちを明かりのない世界の中で石川は眺めている。触れることの出来ない世界に、還りたいと願うかのように。私には、どこか寂しそうな、石川の後ろ姿が視える。現実という真冬に立ちながら、暖かさに満ちた太古を思い返して、ただ、見つめている。

 

「市街前書」に来ると、吹雪は止み、鯨の肌は消えた。かわりに、何処かの屋敷の中にいた。自然の怒涛はここにはない。寂しく静かな貧しさが、ゆらゆらと灯っている。悲観は無く、やはりただただ、石川の眼前を視つめることで成り立つ心象風景があった。ただ、石川は疲れているようだった。しかし悲壮感は不思議と感じない。悲観的な断末魔のような詩はそこにはない。静かに、静かに、ただ、自分自身につぶやいているように、あと少しで瞼が落ちてくるような、微睡と疲労の合間の優しい語りがあった。

 

「沿岸地方」、景色が広がった。ここは自然の中のようで、空気が澄んでいた。石川の心にある自然が広々としている。彼の叙情が空の上で震えている。彼自身が作り出す色彩が揺れている。ここは海の全体像が見えてくる。そうだ、彼の心象風景はどこまでも、どこまでも、続いているのだ。現実が何であれ、彼はいつも自由の身でいること、それは内面世界の多面性と光、自然への熱情、景色は濃く描かれる。陰影がはっきりとして、しかし幻想の色と神秘的原石はありのままに存在している。

 

「郷土周辺」、ここには彼の祈りの声が満ちている。必死に、しかし、誰にも気付かれることなく、彼は祈り続けている。何のために?それは推し量ることはできない。人の不安は深淵である。だから、彼は詩に託した。彼の表面を、私は知ることは出来ない。彼を知ることが出来たところで彼に会うことはもう出来ないのだから。しかし、彼は祈っている。切実に、切実に、手を合わせ、手を握って、それは彼の心にある罪悪なのか、それとも彼の心にある深淵の不安なのか、それを軽々しく私は考察など出来ない。ただ、ここには彼の祈りがある。そして彼は祈りを詩に出来た。その事実がただ、ただ、広がっているのである。

 

「北荒外景」、彼の信仰の形が表れている。彼の憧れの風景がある。原始への熱情と彼独自の神話がある。世界中の神話が彼にとっては詩の世界を広げる要素になったのだと感じた。祈りとは異なる、もっと広大な彼の世界。つまり、彼の信仰や思想が溢れている。羨望であるかもしれない、願いであるかもしれない、しかし、彼は作り上げた。彼は彼の世界を創造した。彼はやり遂げたのだ。そこに彼は横たわる。どこまでも広がる空の下、朗らかに、笑いながら、体を休めている。永遠の楽園とも言える、彼の心象世界が彼の命と共に広がり続けている。

 

「抒情詩篇」、あどけない、子供がいる。それは彼の見た子供なのか、彼の中の子供なのか、いずれにせよ、彼の心象世界で生きる子供が遊んでいる。彼は子供に何を表す?例えば現実のままならさ、大人になることで生まれる俗世の汚れへの自浄作用?しかし何を仮定したところで、それは後付けでしかないだろう。子供はずっと彼の心象世界で遊んでいる。ずっとはずっとだ。彼の命と呼応して、ずっと遊んでいる。それを彼は見つめている。優しい目で見つめている。

 


感じたことを、衝動のままに書いた。私は文芸、特に詩においては解釈を持ちたくない性分である。詩は、詩であり、それで完結するのだという持論で生きている。ここにあるこの単語がどういうことを表すとか、ここはこの哲学の影響があるとか、そういうことに興味はない。
詩は味わえばいいのである。詩を読むときに文字に構えると詩は読めない。構えることはない、ただ読めばいい。
子供の頃絵本を開いた時、何か得ようとしただろうか、理解しようと努めたであろうか。詩は没入して、思考以外で味わうから詩になり得るのだと私は思っている。感想を書く時も、味わった後、思考が余計なことを言う前に書いた。だから、はっきり言って感想としては伝わっている自信はない。

だから、実際に読んで欲しい。詩を読んで、その感覚を共有するというのは困難であると私は思う。詩は読み手の個人的な体験に終始すると思っている。

 

石川の詩には、疲労は見えても悲壮は無い。どこまでも、彼が見てきた自然の雄大さが彼の心にある。彼は狭まらない。彼は嘆かない。ただ、眼前を視て、生きとし生けるものの命一つ一つと彼の心象世界で共に生きている。


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