言いたいこと。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 

昨日の記事『言えなかったこと。』

https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/25/200102

 

 私は何にでも納得してしまう節がある。他人からはよく「素直だ」と言われ、それに対して笑顔で「そうですか」と返しながらも内心は面白くなかった。素直だと言われることに抵抗を感じていた。私の日々自分の思考で雁字搦めになっているような、鬱屈した部分を消されていくような気がしたからだ。しかし、実際私はすぐに納得してしまうところがあり、尚且つ大変影響を受けやすいところがある。
 私の納得とは自分の中で答えを出してしまうことだ。長考の末に単純な或いは安直な自分の答えを出せばそれで終わりにしてしまう。私の脳はそれでいいのかもしれない。しかし、私の精神はそれでは腹の虫がおさまらないのだ。また、人の言葉を強く記憶するところがある。やがて、知らず知らずにその言葉に支配されている。前回書いた記事にも社会人になりたての頃に言われた言葉を出したが、細かく覚えている部分もある。主に違和感と共に残っている。
 違和感を大事にしなければならない。そう思ったのは最近のことだ。素早く結論を出すことも大切かもしれないが、私の場合は納得したと思い込んで無理矢理コマを進めているので後々困ることになる。精神的負荷が知らず知らずに重くなってある日突然動けなくなる。例えば人から言われたことで、悪意のある言葉を頭ではいちいち気にしてはいけないと思い、流すことにしている。しかし、脳がそう思っていたとしても、実際流れてなどいないのだ。ならばいちいち腹を立てるのか?そういうことではない。脊髄反射的に怒りを表出することは現実問題として実際に組み込まれた人間関係の中で不和を起こし自身の立場を悪くしてしまう。『嫌われる勇気』という本が流行ったが、私には合わなかった。文体との相性がよろしくなかった。だが、本の内容よりこの言葉自体が先行している気がする。私は「敢えて嫌われる必要はない」と思ってもいいと考えている。積極的に敵を作る必要はないということだ。周りが自分の意見を忌憚なく言えている中で、例え言いたいことが言えないからと自分を嫌う必要はない。それもひとつの処世術だ。
 何が大事なのかは、感じた違和感についてしっかりと受け止めることだ。日記に書くのもいいだろう。相手が冗談や場を盛り上げるために自分に言った言葉が嫌だったとしたらそれを書く。別にその場で一緒に笑ったからといって自己嫌悪に陥る必要はない。相手に悪意があってもなくてもその言葉に傷付いたのは自分であり、傷付いたという事実は、相手が例え如何に弁明したとしても消えることはないのだから。
 私はこうした違和感、傷付いた事実を揉み消し続けてきた。それは人を嫌いになることでさらにストレスが増えると思ったからだ。人を嫌うと色々と億劫なのだ。二度と会わない人なら躊躇なく嫌うことができるのだが、仕事関係で会う人はそうもいかない。だから本当は嫌いなのに、嫌いという事実すら揉み消すために相手と仲良くなろうとする。面倒ごとにならないようにその相手と仕事になるときはいつも以上に注意を払う。こうして、自分が苦手な相手ほど自分を気にいるという奇妙な状況を自ら作り出していた。
 嫌いな相手にも淡々と接することが出来る人もいる。一方で私の人付き合いは程々にという加減が出来なかった。とにかく相手の顔色ばかりが気になった、声色ひとつで色々なことを考えた。こんなことを不特定多数におこなっていれば当然疲れてしまう。人当たりがいいと言われ、社内向けから社外向けの仕事に移された時は本当に錯乱しそうだった。精神は乱れて帰宅後自宅で(静かに)暴れたりもした。しかし、外からの評価と自己評価は違い、自分がこんなに神経すり減らして仕事をしているなど周りは分からなかっただろう。神経質な面が少し見えることがあっても、ちょっと心配性なだけに捉えられただろう。何故ならこんな自分を見せるわけにはいかなかったからだ。
 自爆という言葉がよく合う。誰も悪くはないのだ。そしてこの時のことからだいぶ時間が経って、過去の私の状況を上から覗いてみて思うのは、私だって悪くはなかったということだ。ただ、もし対策を提案するのなら愚痴日記や嫌いなやつノートなど書いて自分の気持ちに正直になる時間を作ることだと思う。外向きの振る舞い方や、仕事が出来るようになる方法ばかり本で読んでいた。トラブルを回避するためだけに奔走していた。イレギュラーが大嫌いだった。けれどもそれに戸惑っているところを見せられないから、冷静に対応していた。外から見える私と内面の私は酷く断絶していた。余裕が無いと思われたくなくて、仕事が出来ないと思われたくなくて、必死だった。けれども、取り乱してみても良かったと思う。かっこ悪くても良かったと思う。こういうところが苦手なんだと上司に伝わるサインを送ったって良かったと思う。決定的なミスをするより、パニクって困ってしまったと正直に言って事前に防げるのなら、別に上司だって困りはしなかったと思う。私はあの時もっと周りを頼ってよかったのだ。出来ないことの方が多いとバレていてもよかったのだ。だから、助けてくださいと言えたなら、その方がきっとよかった。
 会社に未練があるわけではない。ただ、どのような働き方をするにしても、同じことを繰り返すのは避けたいのだ。しかし、自分の癖はそう簡単に直るものでもない。一人で全部やってしまう人に、もっと周りを頼れと言っても、そうなってしまったことにはそれなりの過程があるのだ。どうしたらいいのかはケースバイケースだろう。私は過去の自分を見て思うことがあるから書いたにすぎない。
 今、私と似たようなことで悩んでいる人がいて、組織内外に相談出来る人がいない場合は、おそらく各都道府県には公的な仕事・キャリアに関するサービスがあると思う。そこにキャリアコンサルタントという職業の方々がいるはずだ。このキャリアコンサルタントはあらゆるキャリア、仕事に関する悩みの相談に乗ってくれる。なにより話を聴くプロだ。無料の対面での相談やメール等での相談があると思うので調べて利用してみることをおすすめする。心の悩みについては厚労省のHPで紹介しているコールセンターがある。心療内科に通うことに抵抗がある人はこういう公的サービスを利用すると一人で悩むよりずっと楽になれると思う。(このようなセンシティブな問題については、私は専門家ではないので、これだけしか言えない。)
 かく言う私も、仕事を辞める直前は職場に居ると死にたくて仕方なくて自分ではどうしようもなくて、勤務中に席を外して自殺対策の団体に連絡をしたことがある。自分の口惜しさや怒り、悲しみを理解してもらえただけで心は少し落ち着いた。病気が再発して悪化した頃は会社に居ると、とても孤独だった。元気に仕事をしていた頃の自分を思い出すと余計に口惜しかった。

 私は療養休暇も有給も使い果たし、その上で再発して欠勤もした。そして欠勤が増える前に辞めた。これは個人的な体験に基づく記事であるから、私は仕事を辞めることを推奨するわけではない。しかし、会社は病を治してはくれない。(メンタルヘルスに理解のある職場であるのなら前提は変わらないにしても状況は私とは異なっていたとは思う。)
 病が残されたとして、仮に完全に治ることはなくとも、付き合ってはいける。
 全ての出来事はなるべくしてなったことだと今なら思う。気分の波は相変わらずだが、取り敢えず生きている。昨日の記事にも書いたが、私にとって成功とは寿命まで生き延びることだ。自分にとっては生きていくこと、それ自体が困難だ。だから、辛い時にもう無理に何かに納得するのはやめる。違和感を違和感として残しておく。
 違和感を受け入れる方法は日記でも創作でもいいと思う。私は詩にしているが、それは時間が経ってからそうなることが多い。時間の経過が短いものはノートに書きなぐっている。ただありのままを殴り書きするノートがあるのもいいものだ。
 

 


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