「不安」と「普通」について。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

前回の記事 『言いたいこと。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/27/191748

 不安が消えない。生きていく目的も手段も自分なりに考えて出したけれども、それでもいつも不安は消えない。敢えて不安定な道を選んだからではない。働きに出られるのなら、今まで通り求職活動をして正規、非正規に関わらず働きに出ただろう。しかし、そうもいかない状況になって、自分が、これならやれると思ったことに時間と労力をかけようと思った結果だった。
 ここ数日は毎日腹痛と戦っている。今日は内科から神経性の腹痛のための薬を処方された。効くことを祈る。昨日の夜から食べられなくなった。夜にようやくお粥を食べられた状態だった。こんなにも、何かを成す前から自分が弱ることが受け入れ難かった。
 求人情報も一応は見ているが、この体調で労働力を提供出来る自信がない。これを書いている今も胃が痛い。だから、家でせっせと詩と文を作ることが、今の私に出来ることであり、そのことを頑張りたい。それで実際にやっていけると楽観的にとらえてなどいない。常に「どうするんだ、どうするんだ」と自問し、「もっと努力しろ、もっと努力しろ」と、自分を追い立てる自分もいる。恐らく眠っている時以外は極度の緊張状態が続いている。
 こんな思いをするぐらいなら働きに出た方がいいかと思っても、現在の体調が私を止めに来る。ならば決めたことを一所懸命にやるしかないと、不安をかき消すためにひたすら書くことに専念する他ない。
 世の中、自分の苦しさないし課題をクリアして初めて経験談として語れるところがある。それは立派な実績になるからだ。けれども、それは結果論で、私はいつもそう言う輝かしい実績に置いていかれてしまう。だから、私はここに結論を書けなかったとしてもありのままを書いていこうと思った。現在進行形で辛い人間の生の声を書くことは、今の私にしか出来ないと思うからだ。
 不安だから創る、不安だから書く、マネタイズになるようなノウハウを私は書けない。世の中を舐めているわけではない。自分に嘘をついて元気なふりができなくなって、不安で仕方がないから書き続けるしかなくなっただけのことだった。
 今の私は不安を原動力にするしかない。そして不安から詩が生まれてくる。どうしようもなさこそ私にとっての芸術の熱源になる。行動しなければ、不安にのまれてしまう。かつてのように組織に属した従来の働き方を選んだとしてもこの不安は消えてはくれない。これからやろうとしている未知のやり方にも知らない不安がある。結局、不安を消す生き方は出来ない。どっちの不安を取るかの違いしかない。
 経済的不安が無かった頃も生きているのがつらかった。今もそれは変わらない。今日もつらい。どんなに心を慰める言葉を探しても、自分に合う言葉はなかなか見つからない。自分に元気が無いのに人に元気を与えることはできないとようやくわかってきた。今までは自分が限界でも、それと人との関係は別問題であって、笑顔と労いを忘れずに生きてきた。その結果が自分を見失うことにつながった。「自分に優しくする」、「自分を大切にする」という言葉はよく聞くが、これ程大変なことはない。自分に合う方法を見つけられたの人はラッキーだと思う。どれだけ優しい言葉も、どれだけ理解ある言葉も、届かないところに自分が居る。そのことに気が付かないまま、良い言葉を受け取り損ね、自分に批判的な意見にだけ反応してそれをどうにかしようと空回り続ける。これまでは、そうするべきだと、それが正しい在り方だと思っていた。
 私がまず私を大切にする方法をわかっていないから、これを読んでくれている人に「自分に優しくあろう」と手放しで言うことはできない。ただ、そういう言葉が世の中に溢れていると言うのに、世の中はそういうことを実際には許してくれていない気がすると思うのだ。休みの日に整えた自分が月曜日には崩れていくというのはいつも体験していた。自分が機嫌良く振る舞っても、不機嫌な人にあっけなくのまれてしまう。自分が嬉しい時でも、辛そうな人が目の前にいたら自分の幸福は引っ込めなければならない。現実ではそういう他者へ合わせた生き方をせざるを得ないのに、どうやって自分を大切にすればいいのか、少なくとも社会人をやっていた頃は、どんな言葉も本も根本的な解決に導いてはくれなかった。むしろ自分を見失って麻痺させなければやっていられなかったのだ。
 ここに書いたのは私の個人的な体験であって、さまざまな考え方や言葉に救われた人もたくさんいるのも事実だろう。だから、そうやって救われることを否定するつもりは毛頭ない。私はあくまで、そこからもあぶれて、今でも苦しい自分がいるという事実を書きたいだけだ。
 どうすれば、自分にとって無理のない生き方が出来るのか、それを私は考えながら生きて、書いている。私は「自分に優しくする」ことも、「自分を大切にする」ことも諦めたわけではない。どうすれば、そこにいけるのかを模索している。その上で、言葉は易しいが、実践は容易ではないと実感している。後悔もトラウマも消えない。被害者であり加害者である自分が苦しい。本当はもっと上手くやりたかった。本当はもっと自立した大人になりたかった。ちょっと気を抜けばそんなことをループしている。
 現在の自分を肯定する、それも難しい。ありのままの自分を認める、その言葉は素晴らしい。しかし、言葉と現実があまりにかけ離れている。現実のわたしは自分に否定的で、自分が好きじゃない。それが事実だ。自分は非凡ではないが平凡でも無いと思っている。よく聞く「普通になりたい」という、この言葉は危険だと思う。「普通」なんてあり得ないのだから。「私の常識はあなたの非常識」という言葉を聞いたことがあるが、成程その通りである。例えば家族での夕飯の姿ひとつを例にとっても「テレビを見ないで家族で夕飯を食べる」という日常の人からすれば、「家族でテレビを見ながら夕飯を食べる」というのは違和感に感じるだろう。逆も然りだ。
 家族のルールは家庭の数だけある。みんな同じだと思いながら行っていた習慣が、誰かにとっては違うことはあるだろう。そんな家族という自分を取り囲む一番近い人間関係ですら千差万別なら、「普通」なんてどこにも無い。仮に「普通」をあげるなら、それは今の自分には無い理想像を思い浮かべてその姿を「普通」と言うだけだ。
 私にとって上記のような「普通」を挙げてみるとすれば、「定期的に自分の居住の掃除を行う」、「料理を作ること」、「ストレスとうまくつきあえる」などが挙げられる。これは今の私には全く出来ないことであって、それを「普通なら出来ているのだろう」と思っては落ち込んでいる。だから「普通」について考えるのは危険だと思うのだ。
 勿論、社会的なルールなど世間一般に浸透していることは守るのが前提となる。しかし、そんなことを無視するのが「普通」な人もいる。法でどうこうできないようなことをして批判されても平気な人もいるのが事実だ。自分がそうなりたいかと言えばそれは嫌だ。私は「法律もルールもマナーも守りたい」と思って生きている。これも事実だ。これは私にとっての「普通」となっていると思う。
 結局はないものねだりと言われればそれまでだろう。隣の芝は青く見えるものだ。だから他人の苦悩にはとことん鈍感になってしまう。それは私も例外ではない。私は私の苦しみに夢中になっている。けれども、他人が自分より大変だから自分の苦しみは我慢しなければならないという考え方も大変危険だ。そうして私は全部を引っ込めた結果、精神的に限界を迎えたのだから。以前も書いたが、つらさを人と比べるのは危険なことである。つらいのは自分である。自分はつらい、それは事実だ。
 こうしてこれを書いて、私は私の頭の中を不特定多数に晒している。有益なことは書けていないだろうけれど、誰かの言葉にならない思いに何か引っ掛かるものがあれば幸いだと思っている。


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