ビクビクしながら生きている。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

前回の記事『「不安」と「普通」について。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/30/190801

 ありのままの状況を書くのなら、私はいつも怯えながら生きている。私は詩もブログも投稿した後、誰かにとって不快になっていたらどうしようと常に心配になっている。誤解のある表現だったらどうしよう、どう思われているだろうetc…。現実の人間関係で悩むことは減ったが、ネットの世界で過ごしていても似たようなことで悩んでいる。でもそれは私の癖だから仕方がない。私は心配性で臆病だ。
 それなら書くのをやめたらいいという話だけど、それは出来かねる。それで生きると決めたからという理由だけではない。再び表現することを諦めたら、同じことをまた繰り返してしまうからだ。毎日が怖くて仕方がない。けれども、それはやらない理由にはならない。人生の風景を変えたいと、ずっと思っていたのだから、私はそのための行動を続けようとやはり思うのだった。
 寒いやつと思われたらどうしよう。空回りしてるんじゃないかと、やっぱり人の目を気にし過ぎる。よく「人の目なんて気にしたらいけない」とか、「生きたいように生きよう」と自由にあることを促す言葉とも出会うが、昨日の「自分を大切にする」同様、それは難しいことなのだ。人目はどうしても気になってしまう。それはネットの世界でも現実の世界でも同じだった。
 それでも何もかもコントロールしなければならないという考え方は自分にとって良くない。委ねるということが今の私には必要なのだ。不安だから、何もかもコントロール出来るようになりたがる。これは二十代前半から続いている私の癖だった。学生のうちは、ある程度の努力でそれは可能だった。しかし、社会に出てしまえば努力が絶対的な位置を占めるわけではなかった。要領よくやることの方が大事な場面もある。
 誰からも嫌われていない状態でなければ安心できなかった。だが、勿論そんなことは無理だ。たくさんのファンがいる人にはそれと同様に多くのアンチもいるものだ。人気者や影響力のある人になればなるほどそういうことは顕著になる。この人のことを嫌いな人なんているのかなと思っても、やはり嫌いな人は存在している。むしろ国民全員がその人を好きになるという状況こそ異常だと言えるだろう。
 有名人についてもそうなのだから、一般人の私だって同じはずだ。私のことを嫌いな人間も存在して、だから私のことを好きでいてくれる人間もいるのだ。前にも書いたが、だからといってあえて嫌われに行く必要は無い。けれども特段悪意を持って接したわけでもないのに気づいた時には嫌われたという時には諦めるしかない。それから自分を嫌う人にばかり気を遣っていたら自分を応援してくれる人を蔑ろにしてしまう。10人中1人が私を好きになってくれるのなら他の9人の顔色を気にして過ごすよりも、好きでいてくれる1人と仲良くした方が精神衛生上もいいと考える。しかし、私は自分を嫌う人の顔色ばかりを気にして生きてきた。
 だから、思い切って自分の意見をネットの海に投下するのは勇気がいる。このブログを公開する時はいつも緊張している。公開した後もビクビクする。あまりに色々なことを書き過ぎたと後悔することもある。でも、取り下げようとは思わない。何故なら私の本音をちゃんと開示したいからだ。どんなことを考えて生きているのか、それから今日もとても生きづらいということを。でも「生きづらい」で片付けられたくないという、どうしようもなさもある。だからここには思うことをちゃんと書こう。そう思って始めたのだ。もっと読まれるような記事を研究して書くことも考えたけれど、それでは私から離れてしまうと思ったのだ。
 Twitterの詩にしても、はてなブログの記事にしても、一旦書き出すための側面が強い。詩なら、詩集として編纂する時、表現を変えたり、加筆修正したり、「伝えること」について何度も考えて詩を作っていく。一番初めの詩からはエッセンスだけを抜き取り、最終的には違う詩の形になっていることもある。このブログも、とにかく生の声を吐露することを目的としている。戦略なんて無く、読まれるためのノウハウも無い。とにかく自分の正直な思いを出し切りたい。そう思って書いている。
 このように、あまりにも自分そのものに近いからこそ、反応に怯えてしまうのだ。ありのままに書いたからこそ、それに対する反応にビクビクしている。けれども私にとってはこういうビクビクする時間が必要だと思っている。今までは、こういう時間を極力削るために、受け入れられる意見しか口にしなかった。会話中も笑ってもらえなければ不安だったから面白おかしい返しをして相手を楽しませることに苦心していた。面白い人と思われたかった。いい人だと思われたかった。どう思われるかをコントロールするために、自分を遠くに置いて人と接していた。こういうことがどんな結果になったかは、前回までの記事で散々書いた。私と同じことをしていても、割り切れている人は私と同じようなことにはならないだろう。ストレスに感じるポイントが異なれば、どういうことがその人をすり減らすかも違ってくるからだ。
 もう自分を見失いたく無い。そう思って、詩と文を書いている。けれどもここまで書いて言うのもおかしいが、これを書いているのが自分の意思なのかすらも今は不安なのだ。ブログを続けようと思って記事を書き、そこには赤裸々に自分のことを書こうと決めて、これを書いている。しかし、文章にするためにどこかで自分をまた誤魔化しているところがあるのではないかと、もはや懐疑主義なんじゃないかというほど、自分を見失わないようにと意識すればするほど、今の自分を疑い出す。
 なんてことを書いていたら段々と具合が悪くなる。適度にやる、それが私には難しい。本音を書くのはやっぱり難しい。すぐに取れる位置に本音があるわけでは無いからだ。本懐など潜在意識の方にあるのではないだろうか。だから、「自分に正直に生きよう」という言葉の実践はそう簡単なことではない。むしろ本能の赴くままの方が楽かもしれない。理性を無くしてもっと動物的になる。しかし理性とはそう簡単に無くせるものでもない。やはり本能的に生きるのも難しい。ままならない人生がただ広がっている。
 だらだらとこんなことを書いてしまって、ああでもないこうでもないと結論のない文を量産して、いざこれを公開する時は異常に緊張してしまうだろう。有益なことを書ける人が羨ましい。
 文章にしても取りこぼすところはきっと詩になっていく。潜在意識との対話は詩に任せることにする。これを読んでくれた方の反応は天に委ねることにする。私に足りないこと、委ねるということも続けていけば出来るようになるかもしれない。
 世の天才像に憧れている。勿論私も自信が無ければこの手段を選ぶことはしなかった。本当は、こんなことぐちぐちと晒さずにいかにも涼しい顔をして詩も文も投稿している風を装いたかった。けれども、そうやって演じているうちは次へ進むことは出来ないと思ったのだ。かっこ悪くてどうしようもないことを伝えることにも自分にとって意味があると思う。自分をブランディングすることなんて社会に出てから散々やった。けれどもこう思われたいというのはことごとく失敗していたと思う。人がどう私を見ていたのかはその人にならなければわからない。ありのまま生きられなくとも、悩みながら生きていても、それで良かったと言える日が来るかもしれない。しかし、やっぱり間違っていたと思う日が来るかもしれない。
 死ぬまで、結果というのは得られないと思う。生きている間は間違うだろうし、思うように生きられないかもしれない。出来れば後悔なんてしたくないけど後悔だらけになるかもしれない。それでも、後悔の数は挑戦した数だろう。やらなかったよりはやった方がいい。やらなかった後悔はしつこく付き纏う。やった後悔も苦しいけれど、自分が死ぬ時はせめて、「まあ、今までよくやったよ」と思いたい。

 

 

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