なぜ表現するのか。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 表現活動の目的とは何でしょう。例えば私はいつも詩を書いています。もちろん、一定の目標はあります。しかし、詩による表現を行う目的は何かと聞かれれば「?」となります。
 特段、あえて詩を選ぼうと思って詩を書いているわけではないのです。私に出来る表現がたまたま詩だっただけです。小説を書こうとしましたが、長いものはどうも上手くいきませんでした。そこまでして書きたい題材がそもそも無かったというのもあります。もし、小説にしたいことがあれば頑張って書いたかもしれません。
 自分のことを考えてみて、当てはまる単語を探した時、繊細とかHSPとか生きづらいとか、恐らくそういう言葉で表せばそれまでなのでしょうけれど、それだけでは無い筈だと思う私がいます。仮に「雪水さんは繊細なのよ。」、「雪水さんは生きづらいんだね。」とか「私はHSPらしい。」、「どうにも私は人に気を使い過ぎてしまうからか疲れてしまった。」など、そういう台詞にまとめたところで、もやもやとしたものが残ります。

 私の場合、自分はどうもHSPに該当するのだと知り、そこで色々な人間関係についての本を読んで社会に溶け込む努力もしました。しかし、私の心は何一つ楽になれませんでした。(※そういう本を否定するつもりはありません。個人の体験です。)
 「散々苦しんだ後、詩が生まれていた」…なんて書けばかっこつけみたいですが、実際そうでした。多分人によってはそれが物語だったり絵や音楽だったりするのだと思います。明確な言語化が困難な状態とは往々にしてあるものです。なにもかもを「結論から話せ」とはいかないでしょう。いつも取り止めもないことで人は悩み苦しみ、言葉にしても何かが足りないような…そんな状態に晒されているのでは?と思います。
 少なくとも私には、「生きづらい…じゃあ足りないんだよなぁ…死にたい…で片付かないんだよなあ…」そういう考えがありました。既存の言葉をそのまま使ったところで、それが自分の心の形を示すかと言えばそれは難しいです。心療内科に通っていても、私がなかなか素を曝け出さないせいか、「あ、(主治医に)伝わってなかった…」となることもあります。私は決定的なことを言うことを避ける性質があり、そのせいか、いざ「本音で言え」と言われたところで、自分でも本音などわからないことが多いです。
 私が今思ってることが私の全てだとも思いません。顕在化している意識なんて潜在意識と比べれば本当に少なく、人間は殆ど無意識の行動で生きているのではないかと思っています。人の仕草で本音が出るとかそう言う類の本が出ているのも、人間は意思により全身を支配することが出来ないということではないでしょうか。
 つまるところ、日常的なコミュニケーションで相手のことどころか自分のことも知るのは困難です。しかし表出されない意識は見えないところで苦しんでいることもあるでしょう。会話、表情、仕草、それらの見える、聞こえる範囲の関係性で充分であるのならここまで「芸術」は育つことはなかったと考えています。
 例えば、頭の中の情景をロジカルに説明できて、説明を聞く人の頭もそれで納得していたら、なんだかそれは人間らしく感じないと個人的には思います。頭の中のことを話せば、相手はきっと「よくわからないから描いてみてよ」と、言いそうな気がします。
 喜怒哀楽だけを単純に表現できて、悔しければ泣いて、嬉しければ笑って、それだけで寿命まで生きられるのなら苦労は無いでしょう。生きている限り、そこからあぶれた感情というものがある筈です。
 わかりやすい例は「恋」だと思います。私は、今はあまり恋愛詩は書きませんが、昔は書いていました。「◯◯のことが好き。だから告白しよう。告白したら、付き合えた(フラれた)。よかった(かなしい)。」で、終わりなわけが無いですからね。複雑で不合理な感情に良くも悪くも振り回されると思います。それで恋愛ソングを聴いて、恋愛をテーマにした物語を映画や漫画、小説などで楽しみ自己投影することもあるでしょう。
 どうしようもないこと、それをそのままにしているのも、よほど達観していない限りは良くは無いと思われます。特に厄介な感情である「嫉妬」が一時的なもので終わることはあまり無いでしょう。人に対して怒りを表現する人も、そうでない人もいるのが事実です。どちらが良くて悪いというのはありません。ただ、自分が我慢した時に感情に任せてモノを言う人が隣にいるということはよくある話です。この場合も、どちらが良くて悪いというのは主観から離れられない判断になるでしょう。
 「昇華」という言葉があるように、芸術は鬱屈した気持ち、どうしようもできない感情を、限りなく自分の思い、心の形に近い状態で表出できる方法であると思います。だからこそ、誰にとっても「表現」は必要になります。言いたいことを言う、それが難しい人にも簡単な人にも。
 人に譲ってばかりいた、かつての私には言いたいことを言って、感情的に生きてる人にはこのような複雑な気持ちなんて「わからないだろう」と思っていたことがありました。しかし、それが全てその人の本心である証拠など無いのです。結局、腹の内など、双方わからないまま、お互い様もいいところです。人の言葉をあまりにも信用してしまっているのは私自身でした。
 分かり合えない、それは今の私にとっては大前提です。例えば詩にしても、書いたものをどのように受け取るかは、もう読み手に委ねられています。自分の気付かない自分の表出、そのために私は詩という手段を選んだのかもしれません。うまくやるために、埋めてしまった自分を文字列の変化の中で見つけるのは時間がかかるでしょう。それでも、そうせずにはいられない、私にとって詩とはそういうものでした。
 「表現」とは、誰もが行うことです。意識的にも無意識的にも。少なからず、既存の作品から私たちは影響を受けていると思います。子供の頃に親しんだ作品、多感な時期にハマったコンテンツ、それらがあの日より薄くなろうともそれによって育って今があります。人の細胞は入れ替わり、過去とは違う細胞で生きているとしても、感情に刺さるものはいつまでも消えず体内を巡っています。
 楽しむこと、それもひとつの表現だと思います。何故、この作品が好きか、それを考えると自分の奥の奥が燃えているように感じます。私は子供の頃から漫画が好きです。漫画に囲まれて生きることや、漫画家になることを夢見ていました。今は違う夢を追っていますが、今でも漫画に背中を押されます。
 言語化できない、あぶれた、理解されない感情を、人は何故か持ち合わせています。そうして、それらを無視することが出来ません。「表現」は自由であり、途方もありません。したがって、「表現」それ自体を目的にするのは地図もコンパスも無しに大海原に出るようなものであり、その前提には、きっと表出したがる感情、気持ちがあるのだと思います。
 ここまで書いても、私が詩を書く理由を明確に述べることは難しいです。「表現」そのものを考えて初めてその糸口が見えたような気がします。燻る気持ちがあるのなら、どうしようもなさに苦しむのなら、なんでも思うように筆を走らせてみるか、歌を歌ってみるか、楽器を鳴らしてみるか、なんでもやってみるに限ります。私の場合、肩に力が入っている時、いい詩は書けません。
 思うまま、流れのまま、逆らわないこと、「表現」に大切なことは決してうまくやることでは無い筈です。それは既に日常生活ですり減るほどに行なっていることです。理由や結論を追いかけず、生産性を考えず、ただ、心が動くように行えば、それは「表現」となるでしょう。


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