生きていたくない。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 

前回の記事『びくびくしながら生きている。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/31/182428

 

 茫漠とした景色が広がっているようで、僅かな凹凸すら捉えられないほどに前後不覚な今日。社会人をしていた頃も生きていたくなかった。自分で決めた道を生きるなら、どんな困難もきっと越えられると思っていた。しかし、心身の状態は芳しくない。闇雲に頑張れていた時期は過ぎてしまい、あらゆる経験が重荷になる。ずっと腹の調子が悪いと言ってきたが、出された薬が「過敏性腸症候群」のものであり、少しは落ち着いてきたと思う。しかし現在は食欲不振である。
 一年間、休養を取っていた。外に出るのも困難な時期があった。加えてこのご時世だったので、あまり外出をしなかったのもある。それゆえに体重が激増した。私は子供の頃から体型がコンプレックスであった。それに加えて体重の増減も激しい体質だった。ある時一気に痩せたかと思えばまた増えている。かなり振り回されてきた。遠回しに体型のことを目上の人に言われたこともあり、私は笑いながら泣き出したくなっていた。
 太いとか細いとか、外見に関することを当人がどう思っているかなど、普通はわからない。「細くて羨ましい」というのも「胸が大きくて羨ましい」というのも褒め言葉ではない場合がある。あまりに主観的な意見だ。言われた方は、沈黙しながら傷付いていることもある。私は、外見的なことをあまり言わないようにしている。うっかり言ってしまうこともあるかもしれない。私だって、無意識に人を傷つけていることだってある。
 女子だけの食事会で、私よりも明らかに細い子たちが「痩せたい」とか「めっちゃ太った」などと話す時、とても居た堪れなかった。自意識過剰だと思うが、子供時代にいじられつづけた体型についての悪口がぶり返してきて、苦しかった。その子たちは私の胸の大きさを羨ましがる風なことを言って、私にも花を持たせているようだった。私は自分の胸が大きいことが嫌であった。気に入ったタイトなニットの服を着た時に、同じ職場の人にやはり胸の大きさを羨ましがられて、同性であっても嫌だった。胸の大きさが出ない下着をつけるようになった。胸に関しては中学の頃からだった。同性の女の子に胸を触られて大きさを羨ましがられた。私は不快だった、しかしそれをうまく言えなかった。同性なら胸に限らずベタベタと触ったり抱きついてもいいと思っている人がいる。私は人に触られるのが男女問わず嫌いだ。よほど仲良くならない限り、肌が触れるのは気持ちが悪い。
 去年、外に出ないことに加えて、過食が止まらなかった。止める方法がわからなかった。そして、医者に相談しても過食に関しては重要事項ではなさそうであった。一転して今は食欲不振だ。正直言って増え過ぎた体重が毎日減っていくことは嬉しい。けれども、このままだと危険であると思っている。普通に食べた方がいいだろう。けれどもそもそも腹の調子も悪い。八方塞がりだ。
 生きていく自信がない。原稿は進まない。書いていると、何かがこぼれ落ちていくような気がする。散々豪語して、後に引けなくなっている。求人を見る。やはり会社勤めのトラウマが消えない。人に会うのが辛い。驚くほどに社会性が薄れている。詩を書いていても、だんだんと言葉が足りなくなっている気がする。生きていたくない。
 自分で選んで、自分を見失わずに生きる。寿命まで、生きる。詩と文で生きていく。それらのことが私にのしかかってくる。どうして頑張れないの?私は私を責める。勤め人の頃と変わらない。「頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、頑張らなきゃ、どうすんだ、どうするんだ、これからどうすんだ。」頭の中で私は叫んでいる。生きづらい?それ以上だと思う。
 こうして見苦しいものを晒すこと。それ自体が今まで避け続けていたことだ。伝わらなくても、私は私を開示するは続けないといけないと思っている。今までなら絶対にやらなかったこと。コンプレックスのこと、全然うまくいかないこと、生きていたくないこと、詩にしても足りないことは、こうして書く他ないと思っている。こんなことでどうするのだろう。誰が私に興味があると言うのだろう。止まらない自嘲、自虐、命へもうやめてしまえと殴りつけるようにして、今日がまたくる。
 終わりが待ち遠しい。もう何も希望なんて見出せない。全部駄目だった。生きていたくないのと、しにたいというのは、似ているようで、違うのだ。自立しなければならない。今度こそ、自分に嘘をつかずに生きようと、そう思ったのに、やはり嘘をついていた。過剰なほどに前向きになっていた。置いてけぼりになった私がやはりいた。どうして一緒に歩けないのだろう。今までのことは、私が社会に過剰に適応するために、敢えて置き去りにしてきた。だから今度は置き去りにした私の声を聞いて、生き方を決めようとした。けれども気付けばまた、置いていってしまっている。
 自分らしくという言葉が、酷く軽々しく聞こえるのは、私に余裕がないからで、言葉自体に罪はないしその言葉をもって生きている人は何も悪くなかった。
 欲しいものはなんだろう。同情でもない、優しい言葉でもない、人の思いはコントロール出来るものじゃない。だからこそ、心を揺らすものが創りたかった。どうすることもできない。私の詩ってなんなんだろう。それは言わないようにしたかった。けれども、生きることを今日にでもやめたい切迫した状況で、もう格好つけるものか。
 肉体が鬱陶しい。この肉体に悩まされることが苦しい。生きているのなら、仕方がない。
 掲げた目標をとりさげることはしたくない。依然変わりなく、五つの目標はそのまま掲げている。なんでもいいから、私は私に動いて欲しい。絶望していても、希死念慮が強くても、情緒不安定でも落伍者でも、なんでもいいから動いて欲しい。沈んだ分だけ、跳ねて欲しい。
 喜びなんてどこにあるのだろう。希望なんてどこにあるのだろう。前みたいに生きることは、結局同じエンディングを迎えるだろう。人と働いていたとしても、組織は人であるとトップが宣ったとしても、組織は組織で組織的にしか作用しない。裏切られたのではない。裏切ったのは私の方だ。労働とは契約だ。契約を果たせないのなら、不履行だ。だから私が悪いというのが社会通念で組織的な考え方だ。資本主義を否定しない。会社勤めを否定しない。その中でやっていけなかったのが私だっただけだ。
 自信がゼロになれば、もうやめるだろう。それでもまだ、自信はゼロにならない。ただの不安が目の前に広がる。寿命も見えない。明日死ぬかもしれない。誰かは生きたいかもしれないけれど、私はその誰かではない。私は罰当たりかもしれない。私を甘えていると見る人もいるかもしれない。これが甘えと片付けられればそれまでだ。努力している人間がこういう人間を嫌悪する気持ちもわかる。私だってそうだった。努力している人は絶対的だ。漫画やアニメの主人公も結局努力して敵に勝つ。その努力信仰が根強い。私は甘えている。気分が悪いと思われる。
 どう思われるかを脳のどこかで気にしながら、本音をぶちまかしている。情緒は可笑しな動きをする。正常で尋常な動きをしながら、何かが破裂して機能停止することを願っている。畢竟、私は甘えている、と判断されるだろうから。 

 


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雪水雪技の活動とお仕事について

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 6月になりました。これからは本格的に「詩と文で生きていく」を実践していこうと思います。

 具体的な活動目標、内容は下記の通りです。

 1.詩集の発刊(6月中に一作目を出す)
 今のところ、「BOOTH」での販売を予定しています。発刊は6月下旬頃を予定しています。詳細はTwitterにて追々報告いたします。

 2.電子書籍(kindle)で書籍販売

6月に最低5冊は発行したいと考えております。生きづらさ、表現をテーマにしたものを発行していく予定です。

6/7 一冊出版。これからの予定は未定となります。

(6/15訂正)

 3.音声配信の充実
 現在の朗読配信に加えて、更新頻度を上げて、standfm及びYouTubeにて配信していきます。

 4.noteにてssを掲載
 ショートショートの世界に興味があるので、こちらの創作も始めております。作品はnoteにて公開していきます。6月1日より更新を始めて参ります。

 5.詩、批評(評論)文、音声等の仕事依頼受付

 ・詩  基本料金 2000円 (一作あたり)(予算に応じた金額応相談)
 ・文 文字数による 1字1円〜
          +必要経費(書籍購入代等)
 ・音声 400字 5000円(経費込み)〜

 ・その他 
  校正、レビュー、宣伝等 → 料金応相談
  ご依頼のご相談は、依頼先同様の連絡先にてお気軽にお問い合わせください。

◆詩、文章はWordかPDFによる納品になります。
◆音声はM4Aファイル、BGM付きの場合MOVファイル形式になります。

 

 ●仕事依頼先→ viyonzoon@gmail.comまで
  (※Twitter相互フォロワー様に限り、これまで通りTwitterDMにてご依頼ください。)

 

 ●その他Twitter及びネット内外の企画に関しましては金銭の発生の有無を問わず、お気軽にTwitterDMにこれまで通りお送りください。

 

◯仕事の流れ
①ご依頼主さまからご連絡
②依頼内容についてメールにて打ち合わせ
③契約内容、お見積もり金額の確認
④契約書の取り交わし
⑤作成物について、納品前に確認(修正、ご要望承ります。)
⑥データにて納品、お支払い先のご案内のメールをお送りいたします。(請求書、納品書が必要な場合はお申し付けください。)
⑦ご入金確認後、受領確認のご連絡のメールをお送りします。(別途受領書が必要な場合はお申し付けください。)

※契約書は当方でもご用意できますのでお気軽にお申し付けください。

 

 

<ご依頼に際しての注意事項>

※1 18歳未満の方からのご依頼、公序良俗に反する内容、反社会的勢力や違法行為に関わる内容、特定の人物、思想、団体等への攻撃的・差別的な内容及び性的・過激な内容を含む依頼ははお断りさせていただきます。依頼もお断りいたします。
なお、未成年者の方で金銭の発生するご依頼がある場合は必ず保護者様を通してご依頼ください。

※2 政治的メッセージを含む内容についてもお断りさせていただきます。

※3 ご依頼に際して、内容があまりに不明瞭かつ悪質なものに関しましては、返信を控えさせていただきます。あらかじめご了承ください。

 

2022年6月1日(水)

ビクビクしながら生きている。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

前回の記事『「不安」と「普通」について。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/30/190801

 ありのままの状況を書くのなら、私はいつも怯えながら生きている。私は詩もブログも投稿した後、誰かにとって不快になっていたらどうしようと常に心配になっている。誤解のある表現だったらどうしよう、どう思われているだろうetc…。現実の人間関係で悩むことは減ったが、ネットの世界で過ごしていても似たようなことで悩んでいる。でもそれは私の癖だから仕方がない。私は心配性で臆病だ。
 それなら書くのをやめたらいいという話だけど、それは出来かねる。それで生きると決めたからという理由だけではない。再び表現することを諦めたら、同じことをまた繰り返してしまうからだ。毎日が怖くて仕方がない。けれども、それはやらない理由にはならない。人生の風景を変えたいと、ずっと思っていたのだから、私はそのための行動を続けようとやはり思うのだった。
 寒いやつと思われたらどうしよう。空回りしてるんじゃないかと、やっぱり人の目を気にし過ぎる。よく「人の目なんて気にしたらいけない」とか、「生きたいように生きよう」と自由にあることを促す言葉とも出会うが、昨日の「自分を大切にする」同様、それは難しいことなのだ。人目はどうしても気になってしまう。それはネットの世界でも現実の世界でも同じだった。
 それでも何もかもコントロールしなければならないという考え方は自分にとって良くない。委ねるということが今の私には必要なのだ。不安だから、何もかもコントロール出来るようになりたがる。これは二十代前半から続いている私の癖だった。学生のうちは、ある程度の努力でそれは可能だった。しかし、社会に出てしまえば努力が絶対的な位置を占めるわけではなかった。要領よくやることの方が大事な場面もある。
 誰からも嫌われていない状態でなければ安心できなかった。だが、勿論そんなことは無理だ。たくさんのファンがいる人にはそれと同様に多くのアンチもいるものだ。人気者や影響力のある人になればなるほどそういうことは顕著になる。この人のことを嫌いな人なんているのかなと思っても、やはり嫌いな人は存在している。むしろ国民全員がその人を好きになるという状況こそ異常だと言えるだろう。
 有名人についてもそうなのだから、一般人の私だって同じはずだ。私のことを嫌いな人間も存在して、だから私のことを好きでいてくれる人間もいるのだ。前にも書いたが、だからといってあえて嫌われに行く必要は無い。けれども特段悪意を持って接したわけでもないのに気づいた時には嫌われたという時には諦めるしかない。それから自分を嫌う人にばかり気を遣っていたら自分を応援してくれる人を蔑ろにしてしまう。10人中1人が私を好きになってくれるのなら他の9人の顔色を気にして過ごすよりも、好きでいてくれる1人と仲良くした方が精神衛生上もいいと考える。しかし、私は自分を嫌う人の顔色ばかりを気にして生きてきた。
 だから、思い切って自分の意見をネットの海に投下するのは勇気がいる。このブログを公開する時はいつも緊張している。公開した後もビクビクする。あまりに色々なことを書き過ぎたと後悔することもある。でも、取り下げようとは思わない。何故なら私の本音をちゃんと開示したいからだ。どんなことを考えて生きているのか、それから今日もとても生きづらいということを。でも「生きづらい」で片付けられたくないという、どうしようもなさもある。だからここには思うことをちゃんと書こう。そう思って始めたのだ。もっと読まれるような記事を研究して書くことも考えたけれど、それでは私から離れてしまうと思ったのだ。
 Twitterの詩にしても、はてなブログの記事にしても、一旦書き出すための側面が強い。詩なら、詩集として編纂する時、表現を変えたり、加筆修正したり、「伝えること」について何度も考えて詩を作っていく。一番初めの詩からはエッセンスだけを抜き取り、最終的には違う詩の形になっていることもある。このブログも、とにかく生の声を吐露することを目的としている。戦略なんて無く、読まれるためのノウハウも無い。とにかく自分の正直な思いを出し切りたい。そう思って書いている。
 このように、あまりにも自分そのものに近いからこそ、反応に怯えてしまうのだ。ありのままに書いたからこそ、それに対する反応にビクビクしている。けれども私にとってはこういうビクビクする時間が必要だと思っている。今までは、こういう時間を極力削るために、受け入れられる意見しか口にしなかった。会話中も笑ってもらえなければ不安だったから面白おかしい返しをして相手を楽しませることに苦心していた。面白い人と思われたかった。いい人だと思われたかった。どう思われるかをコントロールするために、自分を遠くに置いて人と接していた。こういうことがどんな結果になったかは、前回までの記事で散々書いた。私と同じことをしていても、割り切れている人は私と同じようなことにはならないだろう。ストレスに感じるポイントが異なれば、どういうことがその人をすり減らすかも違ってくるからだ。
 もう自分を見失いたく無い。そう思って、詩と文を書いている。けれどもここまで書いて言うのもおかしいが、これを書いているのが自分の意思なのかすらも今は不安なのだ。ブログを続けようと思って記事を書き、そこには赤裸々に自分のことを書こうと決めて、これを書いている。しかし、文章にするためにどこかで自分をまた誤魔化しているところがあるのではないかと、もはや懐疑主義なんじゃないかというほど、自分を見失わないようにと意識すればするほど、今の自分を疑い出す。
 なんてことを書いていたら段々と具合が悪くなる。適度にやる、それが私には難しい。本音を書くのはやっぱり難しい。すぐに取れる位置に本音があるわけでは無いからだ。本懐など潜在意識の方にあるのではないだろうか。だから、「自分に正直に生きよう」という言葉の実践はそう簡単なことではない。むしろ本能の赴くままの方が楽かもしれない。理性を無くしてもっと動物的になる。しかし理性とはそう簡単に無くせるものでもない。やはり本能的に生きるのも難しい。ままならない人生がただ広がっている。
 だらだらとこんなことを書いてしまって、ああでもないこうでもないと結論のない文を量産して、いざこれを公開する時は異常に緊張してしまうだろう。有益なことを書ける人が羨ましい。
 文章にしても取りこぼすところはきっと詩になっていく。潜在意識との対話は詩に任せることにする。これを読んでくれた方の反応は天に委ねることにする。私に足りないこと、委ねるということも続けていけば出来るようになるかもしれない。
 世の天才像に憧れている。勿論私も自信が無ければこの手段を選ぶことはしなかった。本当は、こんなことぐちぐちと晒さずにいかにも涼しい顔をして詩も文も投稿している風を装いたかった。けれども、そうやって演じているうちは次へ進むことは出来ないと思ったのだ。かっこ悪くてどうしようもないことを伝えることにも自分にとって意味があると思う。自分をブランディングすることなんて社会に出てから散々やった。けれどもこう思われたいというのはことごとく失敗していたと思う。人がどう私を見ていたのかはその人にならなければわからない。ありのまま生きられなくとも、悩みながら生きていても、それで良かったと言える日が来るかもしれない。しかし、やっぱり間違っていたと思う日が来るかもしれない。
 死ぬまで、結果というのは得られないと思う。生きている間は間違うだろうし、思うように生きられないかもしれない。出来れば後悔なんてしたくないけど後悔だらけになるかもしれない。それでも、後悔の数は挑戦した数だろう。やらなかったよりはやった方がいい。やらなかった後悔はしつこく付き纏う。やった後悔も苦しいけれど、自分が死ぬ時はせめて、「まあ、今までよくやったよ」と思いたい。

 

 

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「不安」と「普通」について。

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前回の記事 『言いたいこと。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/27/191748

 不安が消えない。生きていく目的も手段も自分なりに考えて出したけれども、それでもいつも不安は消えない。敢えて不安定な道を選んだからではない。働きに出られるのなら、今まで通り求職活動をして正規、非正規に関わらず働きに出ただろう。しかし、そうもいかない状況になって、自分が、これならやれると思ったことに時間と労力をかけようと思った結果だった。
 ここ数日は毎日腹痛と戦っている。今日は内科から神経性の腹痛のための薬を処方された。効くことを祈る。昨日の夜から食べられなくなった。夜にようやくお粥を食べられた状態だった。こんなにも、何かを成す前から自分が弱ることが受け入れ難かった。
 求人情報も一応は見ているが、この体調で労働力を提供出来る自信がない。これを書いている今も胃が痛い。だから、家でせっせと詩と文を作ることが、今の私に出来ることであり、そのことを頑張りたい。それで実際にやっていけると楽観的にとらえてなどいない。常に「どうするんだ、どうするんだ」と自問し、「もっと努力しろ、もっと努力しろ」と、自分を追い立てる自分もいる。恐らく眠っている時以外は極度の緊張状態が続いている。
 こんな思いをするぐらいなら働きに出た方がいいかと思っても、現在の体調が私を止めに来る。ならば決めたことを一所懸命にやるしかないと、不安をかき消すためにひたすら書くことに専念する他ない。
 世の中、自分の苦しさないし課題をクリアして初めて経験談として語れるところがある。それは立派な実績になるからだ。けれども、それは結果論で、私はいつもそう言う輝かしい実績に置いていかれてしまう。だから、私はここに結論を書けなかったとしてもありのままを書いていこうと思った。現在進行形で辛い人間の生の声を書くことは、今の私にしか出来ないと思うからだ。
 不安だから創る、不安だから書く、マネタイズになるようなノウハウを私は書けない。世の中を舐めているわけではない。自分に嘘をついて元気なふりができなくなって、不安で仕方がないから書き続けるしかなくなっただけのことだった。
 今の私は不安を原動力にするしかない。そして不安から詩が生まれてくる。どうしようもなさこそ私にとっての芸術の熱源になる。行動しなければ、不安にのまれてしまう。かつてのように組織に属した従来の働き方を選んだとしてもこの不安は消えてはくれない。これからやろうとしている未知のやり方にも知らない不安がある。結局、不安を消す生き方は出来ない。どっちの不安を取るかの違いしかない。
 経済的不安が無かった頃も生きているのがつらかった。今もそれは変わらない。今日もつらい。どんなに心を慰める言葉を探しても、自分に合う言葉はなかなか見つからない。自分に元気が無いのに人に元気を与えることはできないとようやくわかってきた。今までは自分が限界でも、それと人との関係は別問題であって、笑顔と労いを忘れずに生きてきた。その結果が自分を見失うことにつながった。「自分に優しくする」、「自分を大切にする」という言葉はよく聞くが、これ程大変なことはない。自分に合う方法を見つけられたの人はラッキーだと思う。どれだけ優しい言葉も、どれだけ理解ある言葉も、届かないところに自分が居る。そのことに気が付かないまま、良い言葉を受け取り損ね、自分に批判的な意見にだけ反応してそれをどうにかしようと空回り続ける。これまでは、そうするべきだと、それが正しい在り方だと思っていた。
 私がまず私を大切にする方法をわかっていないから、これを読んでくれている人に「自分に優しくあろう」と手放しで言うことはできない。ただ、そういう言葉が世の中に溢れていると言うのに、世の中はそういうことを実際には許してくれていない気がすると思うのだ。休みの日に整えた自分が月曜日には崩れていくというのはいつも体験していた。自分が機嫌良く振る舞っても、不機嫌な人にあっけなくのまれてしまう。自分が嬉しい時でも、辛そうな人が目の前にいたら自分の幸福は引っ込めなければならない。現実ではそういう他者へ合わせた生き方をせざるを得ないのに、どうやって自分を大切にすればいいのか、少なくとも社会人をやっていた頃は、どんな言葉も本も根本的な解決に導いてはくれなかった。むしろ自分を見失って麻痺させなければやっていられなかったのだ。
 ここに書いたのは私の個人的な体験であって、さまざまな考え方や言葉に救われた人もたくさんいるのも事実だろう。だから、そうやって救われることを否定するつもりは毛頭ない。私はあくまで、そこからもあぶれて、今でも苦しい自分がいるという事実を書きたいだけだ。
 どうすれば、自分にとって無理のない生き方が出来るのか、それを私は考えながら生きて、書いている。私は「自分に優しくする」ことも、「自分を大切にする」ことも諦めたわけではない。どうすれば、そこにいけるのかを模索している。その上で、言葉は易しいが、実践は容易ではないと実感している。後悔もトラウマも消えない。被害者であり加害者である自分が苦しい。本当はもっと上手くやりたかった。本当はもっと自立した大人になりたかった。ちょっと気を抜けばそんなことをループしている。
 現在の自分を肯定する、それも難しい。ありのままの自分を認める、その言葉は素晴らしい。しかし、言葉と現実があまりにかけ離れている。現実のわたしは自分に否定的で、自分が好きじゃない。それが事実だ。自分は非凡ではないが平凡でも無いと思っている。よく聞く「普通になりたい」という、この言葉は危険だと思う。「普通」なんてあり得ないのだから。「私の常識はあなたの非常識」という言葉を聞いたことがあるが、成程その通りである。例えば家族での夕飯の姿ひとつを例にとっても「テレビを見ないで家族で夕飯を食べる」という日常の人からすれば、「家族でテレビを見ながら夕飯を食べる」というのは違和感に感じるだろう。逆も然りだ。
 家族のルールは家庭の数だけある。みんな同じだと思いながら行っていた習慣が、誰かにとっては違うことはあるだろう。そんな家族という自分を取り囲む一番近い人間関係ですら千差万別なら、「普通」なんてどこにも無い。仮に「普通」をあげるなら、それは今の自分には無い理想像を思い浮かべてその姿を「普通」と言うだけだ。
 私にとって上記のような「普通」を挙げてみるとすれば、「定期的に自分の居住の掃除を行う」、「料理を作ること」、「ストレスとうまくつきあえる」などが挙げられる。これは今の私には全く出来ないことであって、それを「普通なら出来ているのだろう」と思っては落ち込んでいる。だから「普通」について考えるのは危険だと思うのだ。
 勿論、社会的なルールなど世間一般に浸透していることは守るのが前提となる。しかし、そんなことを無視するのが「普通」な人もいる。法でどうこうできないようなことをして批判されても平気な人もいるのが事実だ。自分がそうなりたいかと言えばそれは嫌だ。私は「法律もルールもマナーも守りたい」と思って生きている。これも事実だ。これは私にとっての「普通」となっていると思う。
 結局はないものねだりと言われればそれまでだろう。隣の芝は青く見えるものだ。だから他人の苦悩にはとことん鈍感になってしまう。それは私も例外ではない。私は私の苦しみに夢中になっている。けれども、他人が自分より大変だから自分の苦しみは我慢しなければならないという考え方も大変危険だ。そうして私は全部を引っ込めた結果、精神的に限界を迎えたのだから。以前も書いたが、つらさを人と比べるのは危険なことである。つらいのは自分である。自分はつらい、それは事実だ。
 こうしてこれを書いて、私は私の頭の中を不特定多数に晒している。有益なことは書けていないだろうけれど、誰かの言葉にならない思いに何か引っ掛かるものがあれば幸いだと思っている。


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昨日の記事『言えなかったこと。』

https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/25/200102

 

 私は何にでも納得してしまう節がある。他人からはよく「素直だ」と言われ、それに対して笑顔で「そうですか」と返しながらも内心は面白くなかった。素直だと言われることに抵抗を感じていた。私の日々自分の思考で雁字搦めになっているような、鬱屈した部分を消されていくような気がしたからだ。しかし、実際私はすぐに納得してしまうところがあり、尚且つ大変影響を受けやすいところがある。
 私の納得とは自分の中で答えを出してしまうことだ。長考の末に単純な或いは安直な自分の答えを出せばそれで終わりにしてしまう。私の脳はそれでいいのかもしれない。しかし、私の精神はそれでは腹の虫がおさまらないのだ。また、人の言葉を強く記憶するところがある。やがて、知らず知らずにその言葉に支配されている。前回書いた記事にも社会人になりたての頃に言われた言葉を出したが、細かく覚えている部分もある。主に違和感と共に残っている。
 違和感を大事にしなければならない。そう思ったのは最近のことだ。素早く結論を出すことも大切かもしれないが、私の場合は納得したと思い込んで無理矢理コマを進めているので後々困ることになる。精神的負荷が知らず知らずに重くなってある日突然動けなくなる。例えば人から言われたことで、悪意のある言葉を頭ではいちいち気にしてはいけないと思い、流すことにしている。しかし、脳がそう思っていたとしても、実際流れてなどいないのだ。ならばいちいち腹を立てるのか?そういうことではない。脊髄反射的に怒りを表出することは現実問題として実際に組み込まれた人間関係の中で不和を起こし自身の立場を悪くしてしまう。『嫌われる勇気』という本が流行ったが、私には合わなかった。文体との相性がよろしくなかった。だが、本の内容よりこの言葉自体が先行している気がする。私は「敢えて嫌われる必要はない」と思ってもいいと考えている。積極的に敵を作る必要はないということだ。周りが自分の意見を忌憚なく言えている中で、例え言いたいことが言えないからと自分を嫌う必要はない。それもひとつの処世術だ。
 何が大事なのかは、感じた違和感についてしっかりと受け止めることだ。日記に書くのもいいだろう。相手が冗談や場を盛り上げるために自分に言った言葉が嫌だったとしたらそれを書く。別にその場で一緒に笑ったからといって自己嫌悪に陥る必要はない。相手に悪意があってもなくてもその言葉に傷付いたのは自分であり、傷付いたという事実は、相手が例え如何に弁明したとしても消えることはないのだから。
 私はこうした違和感、傷付いた事実を揉み消し続けてきた。それは人を嫌いになることでさらにストレスが増えると思ったからだ。人を嫌うと色々と億劫なのだ。二度と会わない人なら躊躇なく嫌うことができるのだが、仕事関係で会う人はそうもいかない。だから本当は嫌いなのに、嫌いという事実すら揉み消すために相手と仲良くなろうとする。面倒ごとにならないようにその相手と仕事になるときはいつも以上に注意を払う。こうして、自分が苦手な相手ほど自分を気にいるという奇妙な状況を自ら作り出していた。
 嫌いな相手にも淡々と接することが出来る人もいる。一方で私の人付き合いは程々にという加減が出来なかった。とにかく相手の顔色ばかりが気になった、声色ひとつで色々なことを考えた。こんなことを不特定多数におこなっていれば当然疲れてしまう。人当たりがいいと言われ、社内向けから社外向けの仕事に移された時は本当に錯乱しそうだった。精神は乱れて帰宅後自宅で(静かに)暴れたりもした。しかし、外からの評価と自己評価は違い、自分がこんなに神経すり減らして仕事をしているなど周りは分からなかっただろう。神経質な面が少し見えることがあっても、ちょっと心配性なだけに捉えられただろう。何故ならこんな自分を見せるわけにはいかなかったからだ。
 自爆という言葉がよく合う。誰も悪くはないのだ。そしてこの時のことからだいぶ時間が経って、過去の私の状況を上から覗いてみて思うのは、私だって悪くはなかったということだ。ただ、もし対策を提案するのなら愚痴日記や嫌いなやつノートなど書いて自分の気持ちに正直になる時間を作ることだと思う。外向きの振る舞い方や、仕事が出来るようになる方法ばかり本で読んでいた。トラブルを回避するためだけに奔走していた。イレギュラーが大嫌いだった。けれどもそれに戸惑っているところを見せられないから、冷静に対応していた。外から見える私と内面の私は酷く断絶していた。余裕が無いと思われたくなくて、仕事が出来ないと思われたくなくて、必死だった。けれども、取り乱してみても良かったと思う。かっこ悪くても良かったと思う。こういうところが苦手なんだと上司に伝わるサインを送ったって良かったと思う。決定的なミスをするより、パニクって困ってしまったと正直に言って事前に防げるのなら、別に上司だって困りはしなかったと思う。私はあの時もっと周りを頼ってよかったのだ。出来ないことの方が多いとバレていてもよかったのだ。だから、助けてくださいと言えたなら、その方がきっとよかった。
 会社に未練があるわけではない。ただ、どのような働き方をするにしても、同じことを繰り返すのは避けたいのだ。しかし、自分の癖はそう簡単に直るものでもない。一人で全部やってしまう人に、もっと周りを頼れと言っても、そうなってしまったことにはそれなりの過程があるのだ。どうしたらいいのかはケースバイケースだろう。私は過去の自分を見て思うことがあるから書いたにすぎない。
 今、私と似たようなことで悩んでいる人がいて、組織内外に相談出来る人がいない場合は、おそらく各都道府県には公的な仕事・キャリアに関するサービスがあると思う。そこにキャリアコンサルタントという職業の方々がいるはずだ。このキャリアコンサルタントはあらゆるキャリア、仕事に関する悩みの相談に乗ってくれる。なにより話を聴くプロだ。無料の対面での相談やメール等での相談があると思うので調べて利用してみることをおすすめする。心の悩みについては厚労省のHPで紹介しているコールセンターがある。心療内科に通うことに抵抗がある人はこういう公的サービスを利用すると一人で悩むよりずっと楽になれると思う。(このようなセンシティブな問題については、私は専門家ではないので、これだけしか言えない。)
 かく言う私も、仕事を辞める直前は職場に居ると死にたくて仕方なくて自分ではどうしようもなくて、勤務中に席を外して自殺対策の団体に連絡をしたことがある。自分の口惜しさや怒り、悲しみを理解してもらえただけで心は少し落ち着いた。病気が再発して悪化した頃は会社に居ると、とても孤独だった。元気に仕事をしていた頃の自分を思い出すと余計に口惜しかった。

 私は療養休暇も有給も使い果たし、その上で再発して欠勤もした。そして欠勤が増える前に辞めた。これは個人的な体験に基づく記事であるから、私は仕事を辞めることを推奨するわけではない。しかし、会社は病を治してはくれない。(メンタルヘルスに理解のある職場であるのなら前提は変わらないにしても状況は私とは異なっていたとは思う。)
 病が残されたとして、仮に完全に治ることはなくとも、付き合ってはいける。
 全ての出来事はなるべくしてなったことだと今なら思う。気分の波は相変わらずだが、取り敢えず生きている。昨日の記事にも書いたが、私にとって成功とは寿命まで生き延びることだ。自分にとっては生きていくこと、それ自体が困難だ。だから、辛い時にもう無理に何かに納得するのはやめる。違和感を違和感として残しておく。
 違和感を受け入れる方法は日記でも創作でもいいと思う。私は詩にしているが、それは時間が経ってからそうなることが多い。時間の経過が短いものはノートに書きなぐっている。ただありのままを殴り書きするノートがあるのもいいものだ。
 

 


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言えなかったこと。

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

昨日の記事『なぜ表現するのか。』
https://sosogi-yukimizu.hatenablog.com/entry/2022/05/25/200102

 言葉を使い、言葉を並べて、詩を書いている。また、ここに自分の考えをやはり言葉で書いている。しかし、現実の私は言いたいことを引っ込めてしまう癖がある。それを優しさと捉える人もいるかもしれないが、それは違うと自分でわかっている。これは、私の怠慢である。人に伝えることを諦めている私の悪癖である。
 言えなかったことが沢山あると、ふと考えたが、それは「言えなかった」のではなく「言わなかった」に過ぎないかもしれない。それは私の感情的な事柄であり、組織的な場においてそれを口にすれば、空気が乱れると思ったから言わなかった。だが、空気が乱れて困るのは、本当に周囲だったのだろうか。それは私自身だったのではないだろうか。
 そんなことを考えながら、今これを書いている。どうしてか、そうしなければならない気がしているからだ。私の心象的な出来事を全て詩に込めたとしても、それとは別に私は自分のことをもっと開示していきたいと思うのである。なぜなら、私にとってセルフイメージというのは全く役に立たないからだ。
 詩は特段、造語で出来ているものではない。そういう詩もあるだろうけど、私の詩にあるのは日常的な言葉たちだ。そこに込められているのは、どうしようもない自分の人生、生きていること、そのものへの違和感だった。
 社会人になってから、最初に教えられたことは二つ。「二十代はがむしゃらにやれるけれど、三十代はそれが難しくなる。」、「空を見上げながら人は落ち込めないものだ。」ということだった。二十代を終えて、最初の言葉は痛感している。ただただ、前進する力というものが明らかに落ちている。そうでない人もいることはわかっている。いくつになってもバイタリティに溢れてる人に何人も会ってきた。そこで生命的な活力の差は年齢によらないことを痛感していた。元気な人を見ていると、肩身が狭くなった。それを隠して、元気なふりをして一生懸命に笑っている自分を冷めた目で見ているもう一人の自分に気づかないふりをしながら。
 二つ目に関してはどうにも違うらしいと思った。二十代、社会人生活をしていた頃、帰り道は大体電線を見上げて「死にたい」と思っていた。どうして電線を見ながらそんなこと思うのか、疑問にも思っていなかったが、あの二つ目の言葉を実践する癖がついていただけのことだった。だからわかったことだが、「人は上を向こうが下を向こうが落ち込むときは落ち込むのだ。」
 誰といても、一人でいても、心の中に常にあった気持ちは「生きていたくない」だった。どれだけ仕事で褒められていても、どれだけ信頼を得ても、どれだけ恵まれた環境にいても、二十代の私は「生きていたくなかった」。あるトラブルが起こってから、精神的に崩れることが増え、その度に希死念慮は強くなった。今も心療内科に通っている。落ち着いては来ているが、いつだって生きていることそのものへの違和感が消えない。
 だけどそんなこと誰にも言えなかった。親を悲しませたくなくて、人に面倒をかけたくなくて、別に構われたいわけでもなくて、特別扱いされたいわけでもなくて、それでもただ、「この世界からどうか早めにいなくなりたい」という気持ちがあった。
 こういうことを書いたなら、「それでも今は元気です」、とか、「ありのままの自分を認めたら人生が変わりました」、とか、そういう方向に結びつけて書けるのならいいのかもしれないけれど、私には今でもこの違和感が居座り続けている。もう、組織に属したり、雇用されたり、絶対的に生じる避けられない人間関係の中で生きていくのはとにかく耐えられなくなった。
 「詩と文で生きていきたい。」無名の私には絵空事みたいな目標だと思う。これでもっと有益な情報を伝える文章が書けるのなら現実味はあったかもしれない。けれども結局、私には自分を欺く力が残っていなかった。組織の中で働くということが、そもそも向いていなかったのだ。しかし、楽しいこともあった、悪いことばかりじゃなかった、みんなのことが嫌いなわけじゃなかった、みんなと仲間だって思える瞬間は幸せだった、でももう無理だった。
 「具体的に何があったのか」は、ここに詳しく書くことはない。それは、もしも私の正体を知った人がこれを読んだ時に怒ったり悲しんだりするのが、嫌というか、もう他の人間の感情そのものが重くて耐えられないからだ。随分と身勝手になった。でもそれが変えようのない事実であり、本音だから、そう書くほかない。だから、「こうなったこと」のきっかけについて瑣末なことを具体的に書くことは無い。
 ずっと「こうあらねばならない」、「こうあるべきだ」という考え方で生きてきた。堅実であること、真面目で誠実であること、人を裏切らないこと、それさえ守れば私は救われると思っていた。けれども、そういうものではない。そういうものではないとわかった時に、ズルいことをするのも、不義を働くことも、全部嫌だった。それどころか、人の不誠実にはどんどん潔癖になっていった。ドライになれなかった。割り切ることが出来なかった。結局、私はちっとも大人になれていなかったのだ。そう気づいた時は愕然とした。今まで、聞き分けよく、気を回して立ち回っていた自分は、大人に褒められたい子供のような心でそうしていたのだった。幼稚で悲しい成人女の姿が浮かび自分で自分が居た堪れなくなった。
 ひとつの終わりは、暗転というより真っ白だった。どうすればよかったかなんて、頭ではわかっている。しかし、心が、体が、それを拒否したから今がある。本当に、どうしようもなくなって、ぷかぷかとシャボン玉のように言葉が部屋の中に満ちていった。それをひとつひとつ弾けさせていくように詩を紡いだ。誰かのためには書けなかった。自分のためにしか書けなかった。前向きな言葉を書けなかった。頼りない煙のような、どこにも留まらないような、そんな言葉ばかりを書いている。
 生産的なことが書けたならいいけれど、それなら多くの人が既にやっている。私は私を開示することで、誰かが私を見つけた時に、誰かの行き場のない思いのほんの少しの停車場にでもなれるなら、それでいいと思っている。自分と同じ人間なんていない。これを読んでくれているあなたと同じ人間もいない。だから何もかもわかり合うことなんて出来ない。わかり合えると信じることは危険だ。
 他人が自分の絶対的な味方になることもない。何もかもに同意してくれる人などいない。頭ではわかっていても、どこかで期待をする。そうしてまた傷つく。痛い目を見ても、私はまた繰り返している。全部受け入れて仕舞えば良いと思っても、何もかも受け入れられるような心を持っていなかった。かつて私は自分の包容力を信じていたことがある。しかし、それは思い上がりだった。私は見返りを求めた。だから傷ついた。かつて私は自分の優しさを信じていたことがある。しかし、やはりそれも思い上がりだった。私は相手にも同じようにあることを求めた。だから傷ついた。悲しみ、怒った。
 そんなことを繰り返して、今日まで生きてきた。キラキラした毎日なんて別にいらない。人に羨まれる人生なんかじゃなくていい。私にとって成功とは寿命まで生き延びることだ。
 私は私の中にある違和感をどうにか出来て、あと少しだけでも大人になれるなら、それでいい。

 私は詩を書いている。別に資格がなければ名乗れない職業ではない。私は詩を書いている。毎日毎日。だから詩人と名乗っている。今日もどうしようもなくて、つらくて、答えは出ないことに悩んでいる。それにせめて形を与えてやりたい。だから今日も詩を書いている。

 

 

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なぜ表現するのか。

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雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

 表現活動の目的とは何でしょう。例えば私はいつも詩を書いています。もちろん、一定の目標はあります。しかし、詩による表現を行う目的は何かと聞かれれば「?」となります。
 特段、あえて詩を選ぼうと思って詩を書いているわけではないのです。私に出来る表現がたまたま詩だっただけです。小説を書こうとしましたが、長いものはどうも上手くいきませんでした。そこまでして書きたい題材がそもそも無かったというのもあります。もし、小説にしたいことがあれば頑張って書いたかもしれません。
 自分のことを考えてみて、当てはまる単語を探した時、繊細とかHSPとか生きづらいとか、恐らくそういう言葉で表せばそれまでなのでしょうけれど、それだけでは無い筈だと思う私がいます。仮に「雪水さんは繊細なのよ。」、「雪水さんは生きづらいんだね。」とか「私はHSPらしい。」、「どうにも私は人に気を使い過ぎてしまうからか疲れてしまった。」など、そういう台詞にまとめたところで、もやもやとしたものが残ります。

 私の場合、自分はどうもHSPに該当するのだと知り、そこで色々な人間関係についての本を読んで社会に溶け込む努力もしました。しかし、私の心は何一つ楽になれませんでした。(※そういう本を否定するつもりはありません。個人の体験です。)
 「散々苦しんだ後、詩が生まれていた」…なんて書けばかっこつけみたいですが、実際そうでした。多分人によってはそれが物語だったり絵や音楽だったりするのだと思います。明確な言語化が困難な状態とは往々にしてあるものです。なにもかもを「結論から話せ」とはいかないでしょう。いつも取り止めもないことで人は悩み苦しみ、言葉にしても何かが足りないような…そんな状態に晒されているのでは?と思います。
 少なくとも私には、「生きづらい…じゃあ足りないんだよなぁ…死にたい…で片付かないんだよなあ…」そういう考えがありました。既存の言葉をそのまま使ったところで、それが自分の心の形を示すかと言えばそれは難しいです。心療内科に通っていても、私がなかなか素を曝け出さないせいか、「あ、(主治医に)伝わってなかった…」となることもあります。私は決定的なことを言うことを避ける性質があり、そのせいか、いざ「本音で言え」と言われたところで、自分でも本音などわからないことが多いです。
 私が今思ってることが私の全てだとも思いません。顕在化している意識なんて潜在意識と比べれば本当に少なく、人間は殆ど無意識の行動で生きているのではないかと思っています。人の仕草で本音が出るとかそう言う類の本が出ているのも、人間は意思により全身を支配することが出来ないということではないでしょうか。
 つまるところ、日常的なコミュニケーションで相手のことどころか自分のことも知るのは困難です。しかし表出されない意識は見えないところで苦しんでいることもあるでしょう。会話、表情、仕草、それらの見える、聞こえる範囲の関係性で充分であるのならここまで「芸術」は育つことはなかったと考えています。
 例えば、頭の中の情景をロジカルに説明できて、説明を聞く人の頭もそれで納得していたら、なんだかそれは人間らしく感じないと個人的には思います。頭の中のことを話せば、相手はきっと「よくわからないから描いてみてよ」と、言いそうな気がします。
 喜怒哀楽だけを単純に表現できて、悔しければ泣いて、嬉しければ笑って、それだけで寿命まで生きられるのなら苦労は無いでしょう。生きている限り、そこからあぶれた感情というものがある筈です。
 わかりやすい例は「恋」だと思います。私は、今はあまり恋愛詩は書きませんが、昔は書いていました。「◯◯のことが好き。だから告白しよう。告白したら、付き合えた(フラれた)。よかった(かなしい)。」で、終わりなわけが無いですからね。複雑で不合理な感情に良くも悪くも振り回されると思います。それで恋愛ソングを聴いて、恋愛をテーマにした物語を映画や漫画、小説などで楽しみ自己投影することもあるでしょう。
 どうしようもないこと、それをそのままにしているのも、よほど達観していない限りは良くは無いと思われます。特に厄介な感情である「嫉妬」が一時的なもので終わることはあまり無いでしょう。人に対して怒りを表現する人も、そうでない人もいるのが事実です。どちらが良くて悪いというのはありません。ただ、自分が我慢した時に感情に任せてモノを言う人が隣にいるということはよくある話です。この場合も、どちらが良くて悪いというのは主観から離れられない判断になるでしょう。
 「昇華」という言葉があるように、芸術は鬱屈した気持ち、どうしようもできない感情を、限りなく自分の思い、心の形に近い状態で表出できる方法であると思います。だからこそ、誰にとっても「表現」は必要になります。言いたいことを言う、それが難しい人にも簡単な人にも。
 人に譲ってばかりいた、かつての私には言いたいことを言って、感情的に生きてる人にはこのような複雑な気持ちなんて「わからないだろう」と思っていたことがありました。しかし、それが全てその人の本心である証拠など無いのです。結局、腹の内など、双方わからないまま、お互い様もいいところです。人の言葉をあまりにも信用してしまっているのは私自身でした。
 分かり合えない、それは今の私にとっては大前提です。例えば詩にしても、書いたものをどのように受け取るかは、もう読み手に委ねられています。自分の気付かない自分の表出、そのために私は詩という手段を選んだのかもしれません。うまくやるために、埋めてしまった自分を文字列の変化の中で見つけるのは時間がかかるでしょう。それでも、そうせずにはいられない、私にとって詩とはそういうものでした。
 「表現」とは、誰もが行うことです。意識的にも無意識的にも。少なからず、既存の作品から私たちは影響を受けていると思います。子供の頃に親しんだ作品、多感な時期にハマったコンテンツ、それらがあの日より薄くなろうともそれによって育って今があります。人の細胞は入れ替わり、過去とは違う細胞で生きているとしても、感情に刺さるものはいつまでも消えず体内を巡っています。
 楽しむこと、それもひとつの表現だと思います。何故、この作品が好きか、それを考えると自分の奥の奥が燃えているように感じます。私は子供の頃から漫画が好きです。漫画に囲まれて生きることや、漫画家になることを夢見ていました。今は違う夢を追っていますが、今でも漫画に背中を押されます。
 言語化できない、あぶれた、理解されない感情を、人は何故か持ち合わせています。そうして、それらを無視することが出来ません。「表現」は自由であり、途方もありません。したがって、「表現」それ自体を目的にするのは地図もコンパスも無しに大海原に出るようなものであり、その前提には、きっと表出したがる感情、気持ちがあるのだと思います。
 ここまで書いても、私が詩を書く理由を明確に述べることは難しいです。「表現」そのものを考えて初めてその糸口が見えたような気がします。燻る気持ちがあるのなら、どうしようもなさに苦しむのなら、なんでも思うように筆を走らせてみるか、歌を歌ってみるか、楽器を鳴らしてみるか、なんでもやってみるに限ります。私の場合、肩に力が入っている時、いい詩は書けません。
 思うまま、流れのまま、逆らわないこと、「表現」に大切なことは決してうまくやることでは無い筈です。それは既に日常生活ですり減るほどに行なっていることです。理由や結論を追いかけず、生産性を考えず、ただ、心が動くように行えば、それは「表現」となるでしょう。


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