我流の詩と読書

Twitterにて詩を投稿しています。
雪水雪技(ゆきみず そそぎ)と申します。

スタエフでは今朝のひとり朝礼で嬉しかった出来事と挑戦することから逃げないと決めたことを話しています。
https://stand.fm/episodes/627845d4bd81c40006a7372f

昨日YouTubeへ朗読動画をアップしました。
→ 【創作詩朗読】L'art pour l'art
https://youtu.be/_AGQ4-mZ0Uc


詩を書いたのはいつだろうと思えば一番若い頃は小学校三年生の時で小学校四年生で担任にもっと勉強しろと言われて不貞腐れて書かなくなり…
(これは自主勉強ノートに自作の詩を書いて提出するのを小三までの担任は良しとしたが、小四からの担任は計算と漢字をやってから書けということであった。私としては国語の教科書に詩が載っているのだから自分で詩を書くのも勉強に入るという自論であり、漢字も計算も嫌いだったのが余計に嫌になり益々勉強をしなくなったという話だ。担任は正しいが私の情緒的な部分が今でも許せないでいる。それは「どうだ正論なんぞこんなものだ。ふん。」と不貞腐れている。)

中三の頃にも授業で少し書いた。

高校は専ら演劇部に励み、高三で脚本を書いたが詩は書かなかった。大学はバイト終わりに夜中までデジタルイラストを描いてテスト前とレポートの提出期限はいつも詰め込みでやっていた。やはり詩は書いていなかった。
社会人になってから、最初の東京での会社生活が激動過ぎて自分の時間があったのは会社を辞めて地元に戻る前の一ヶ月ぐらいだったと思うが、仕事を辞める少し前に太宰治人間失格』を読んで日本文学に傾倒していった。その流れで読んだ詩人は中原中也であり、中原つながりで小林秀雄の作品とも出会った。地元に戻る前の時期は、詩とも小説ともつかない散文を少し書いていた。
地元に戻ってから、図書館でちくま日本文学の萩原朔太郎を借りてきて読み、魂の片割れを見つけたような気になった。
二十代前半に中原中也萩原朔太郎と出会い、彼らは私の文学的ヘモグロビンになったように思う。
そのヘモグロビンが真っ赤に噴き出したのは二十代半ばで精神疾患になり、行き場のない怒りが言葉になった時であった。その後、久しぶりに人を好きになり、片想いが長引いた。熱病の幻想と時間と共にどんどん概念となる恋慕が空中を舞うのでそれらを捕まえて詩にしていた。その頃は別名義でネットに詩を投稿していた。そうして片想いと疾患が重なり一時期、より病的な詩情に取り憑かれていた。
その後、また書くのを止めて、再開したのが一昨年。それから現在まで書き続け、ようやく「雪水雪技」という屋号を取り外さずに今日まで活動を続けている。

中原中也萩原朔太郎を読んでいた頃、小林秀雄の批評文からはいつも雷撃のような衝撃を受けていた。

小林はいつかのセンター試験に出題されたことで有名になっていた。そうしたところから、彼の批評文は難解と言われているが、確かに私が小林を理解しているかと聞かれればまだ理解は及んでいないと思う。小林は私の中では理解以前に味わうものになってしまった。小林の批評文ないしエッセーは何度も何度も味わいながら楽しむ文学であると思っている。とにかく、彼の一文の強烈さを味わう。読んでは、「かーっ!!小林ーー!!かーーーっ!!」というような、度数の強い洋酒の類をカッと飲むような塩梅でくあっとなりながら楽しんでいる。こんなんだからなかなか読み進まない。(私は元・酒豪だが現在酒は飲まなくなった。腹が痛くなるので。)

小林は江戸っ子であるが故か、その片鱗が文体に表れている。読んでいて気持ちがいいのだ。以前小林秀雄の初期論考集『批評家失格』(新潮文庫)を手に入れた。大事に大事に読んでいる。ここでは小林22歳から30歳までの論考がまとめられている。やはり若い小林の尖り方がもう尋常じゃない。今の私に二十代前半の頃の感覚を呼び起こさせる。こうして特異な嗜み方をしているせいで他人とまれに文学の話になると相手が目上だろうが関係無しにテンションの上がり方が急になり早口になり、相手は引きつりながら笑うので私は好きなものの話を引っ込めるようになった。

せめてブログの中では縦横無尽に自重なく騒ごうとこれを書いている。

絶対使うところは無いけれどいつか使いたい小林語録をノートに書いてにやにやしているのである。高い貰い物の酒をケチケチ飲むように味わっている。

こんな特殊な読み方している人間もいるのだから、読書なんて自由でいい。年収と繋げたいのならそういう読書術はたくさん教えてくれる人がいるから学ぶといい。本より漫画が好きなら漫画をたくさん読むといい。私は大人になってから読書するようになったが、学生の頃は漫画ばっかり読んでいた。それでも一番成績が良かったのは国語だったのでいまいちその辺の因果関係がわからない。
何を読んでいいのかわからないなら齋藤孝氏の「読書力」を読むといいと思う。学生の頃読もうとしたけれど同氏の「座右のニーチェ」に気を取られて本書を読んで満足して「読書力」を読むのを忘れて大人になってから漸く読んで、学生の頃に読めば良かったと思った。だからもしもこれを読んでいる学生がいるのならぜひ読むことをおすすめする。私は大学で勧められたが、小中高問わず、各々が読みたい時に読むといい。

持論でしかないが、畢竟、読書は読みたい時に読みたいものを読むに限る。

難しい顔して難しい本を読むことに憂鬱になるよりはニヤニヤ読める本が私はいいと思うが、どうなのだろう。私は読書家でもなければ専門家でもないから、一例としてしか話せない。

そんな私も詩人を自称し、詩で生きていこうとしているので、最近ようやっと読書への目的が出来た。
それは「詩」への理解を深める読書である。
萩原朔太郎の『詩の原理』は紙で読みたかったのだが、今はKindleで読むしかない。古本屋を探せば過去に新潮社から出された筈の同本を見つけられるかもしれないが、田舎ゆえに町中にあった古本屋は店を畳んでいた。目のかすみに耐えて読むほかない。
そうして小林秀雄の批評文から詩の原理を抽出することを心掛けている。彼の周りにはいつも日本を代表する詩人がたくさんいたのだから、彼の目に映る詩人を知ることは詩そのものを知ることに繋がると思っている。


■活動中のSNS

Twitter→@sosogi_yukimizu
https://mobile.twitter.com/sosogi_yukimizu

instagram→@sosogi_yukimizu
https://instagram.com/sosogi_yukimizu?r=nametag

□standfm→ https://stand.fm/channels/60c6be9db82bc5e1f35fdd67
(そそぎ詩作チャンネル)

YouTubehttps://youtube.com/channel/UCNog-RBx4meZ1i7tPsvpFZQ